このブロウは社会学かぶれの自分が、日々過ごす中で感じた事、読んだ物、多々ある中、適当に思った事をちょっと社会学的に見てみようか、程度のブログです。


by gsocio
f0192765_2317458.jpgちょっと前にニュースになっていたが、出会いサイト規制法に異性間の性的行為しか想定に入れていない事が問題にされていた。この事自体からこの法律の買収に対する認識の浅さが伺える。

元々売春は男性が買い女性が売る物とはなっていなく、ギリシャ時代から男娼は存在していたし、同性愛専門の男娼も存在していた。売春とは金銭的力関係の上に成り立つものであり、男女の力関係は問題ではない。歴史的な金銭的力関係から男性が女性を買うのが支流に成っているだけである。

現に一昔前に流行った買春旅行に置いて今一番の成長を見せているのは先進国の女性の買春旅行である。これは女性が金銭的力を得た事により金銭的力の劣る男性を買っている形であり。力の関係は男性の買春となんら変わりは無い。

この売春の根本的な力関係を認識していれば同生間での売春は想定してい事はありえない。しかし、想定していなかったところを見ると売春行為が少女のみで行われている行為ではなく少年から女性に対しての売春行為も想定には入ってはいないだろう。勿論、法的な強制力はある物の取り締まりは行われているかは、かなり疑問だ。

この、ニュースのもう一つの心配な点は、この報道により更にこの様な売春行為を行う少年達が現れないかと言う点だ。

売春をする少年の中には家庭内で暴力の問題を抱え家出をしている者も居る。それがサポにプラスして宿を求める理由にもなっている。勿論、少女の場合も同様だが、少女の売春の容易さは周知の事実なので、実質的これ以上の急激な増加は見込まれない。しかし、少年の場合は今回のニュースに見るようにその特異性が注目を集める要因となりえた。

この動きは90年代のブルセラ、デートクラブから形成される援助交際ブームに近いものがある。元々、女子高生の売春行為はごく一部歩女子高生が裏で行っていた物だったのが(Q2やテレクラではその前から存在はしていた)テレビでセンセーショナルに取り上げられた事により、一般の女子高生達が大挙してデートクラブ等に押し寄せた経緯がある。

それまで、デートクラブでは売春行為を行う女子高生は殆ど居なく、如何にやらせずに儲けるかが重要だった。これは上客の男性をデートクラブ内の女子高生で回していた事が背景にある。もしウリを行うと男性客が一人の子に固定化していまい他の女の子たちは客を失う、また他の男性客もウリをする女の子に集中してしまうので、ウリをしない女の子達はさらに男性客を失っていく。

こうした背景からウリをする女の子はデートクラブ内のグループ完全にはぶかれてしまい、そのデートクラブに居られなく成ってしまうと言った状況があったが。それがゆえに、ウリをしないで稼ぐ事が求められたのだが、テレビでごく一部のウリをするデートクラブの女子高生の情報が流れたために、今までその様な稼ぎ方を知らなかった多くの女子高生がウリを目的としてデートクラブに押し寄せた。それにより、ウリをしない元々居た女の子達はデートクラブには居られなくなり、デートクラブその物の様相も様変わりしてしまった経緯がある。

この例と同様にメディアの報道により新たな稼ぎ方を知ってしまった少年達は当時の女子高生とはまた違った意味での場所代を稼ぐために急激な増加も想定しておくべきだろう。しかしながら、規制をかければ意と言う問題ではない。

規制をかければ動機は解消されることは無いので問題はアンダーグラウンド化してしまい、状況把握が困難に成ってしまう。把握できたとしても極一部の人間だけだ。その一部の人間が下すこの問題のアンダーグラウンド後の裁定をいったい誰が評価できるだろう。

目に見えない所にある事は消えてしまった訳ではなく見えないだけだ。問題はそこにあり続ける。また解消できない問題であるならば如何にその問題と付き合っていくかと言う事が重要に成ってくる。どちらにしても過剰に目に見えるものだけに反応して対応していては問題はアンダーグラウンド化してしまうだけだ。
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# by gsocio | 2009-05-24 23:19 | 社会系
f0192765_3144662.jpg裁判員制度がスタートした。

報道には全くと言っていいほど出ていないが、スタート二週間ほど前に超党派の議員連盟による無期期法案と修正案が国会に提出される動きがあった(議連自体はもう少し前からあった)。しかし民主党の党首選で民主党の議員が法案提出に待ったがかかった。大まかな話は付いていて、法案提出人数も達しており、党議拘束を無くして、採決する形にだいたい成っていたので、もしかすると裁判員制度が土壇場でストップする可能性があったが、民主党のごたごたに巻き込まれ法案提出が延期となった。正確には岡田、鳩山、両氏の検察と司法に関する考えの違いから民主党の議員が岡田氏が党首に成った場合に法案のお伺いを立てる必要性があったからだ。

法案は裁判員制度完全否定の法案ではなく、修正がメインの法案だった。無期延期もそう言った背景だからだ。修正法案のメインと成る修正箇所は、守秘義務について。司法側は裁判員の体験を寄り世間に広めて欲しいと言って置きながら、裁判の内容は口外禁止。口外した場合は罰則が設けられている。勿論、体験を広める事と裁判の内容を口外する事との間に線引きはあるのだろうが、それが鮮明でない。また死刑判決に対する多数決判決に対する修正案。

他にも、社民党の保坂氏のブログに12の論点として問題点などが挙がっている。

これらの修正案は、根本的な裁判院制度のポストモダン化による正当性の問題からなる民主的な採決による正当性の担保の、ではなく現場的な裁判員が実際に直面するであろう問題の修正である。

裁判員制度の利点を国民側に引き寄せる為にもこれらの問題を速めに改正すべだろう。そうしなければ三年後の裁判員制度見直し時に司法の都合のみで見直される恐れがます事に成るかもしれない。
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# by gsocio | 2009-05-22 03:18 | 社会系

豚インフルエンザにより

f0192765_1983294.jpg29日に両親がゴールデン・ウィークを使って一週間ほどボストン遊びに来るはずだったが、急遽延期になった。理由は勿論、「豚インフルエンザ」。確率論から言えば海外への渡航を避けて、国内を車で旅行した事によって交通事故に遭う確立の方が、こちらに来てインフルエンザにかかる確率よりも高いと思うのだが。

実際のところは、父も余りインフルエンザの事は気にしていない様子。問題はインフルエンザにかかるかからないと言った事よりも、会社の立場上来れないとの事。父の会社では現在北米への出張禁止、旅行自粛が社員に出されているらしい。父の立場はそう言った事を聞く側ではなく、上から言う方なので、言った本人が旅行は出来ないとの事らしい。

この様な父の会社と同じく北米等の海外への渡航を控えるようにと、社員に通達している企業はどの位あるのだろう?もし、その様な企業が多い場合、海外に流れるはずだった消費が国内に向かうとどの程度の経済効果があるのだろう?

その前に、もともと海外に行く予定はあったのだろうか?


ともかく、両親が来るとの事だったので部屋を片付ける口実が出来、綺麗になった事は収穫だった。
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# by gsocio | 2009-04-29 19:15 | ボストンの学生生活
f0192765_1825288.jpg先日ボストンで前参議院議員の 武見敬三先生の講演があったので参加させて頂いた。今回の主催はJaRANと言う何時も参加させていただいている、研究者交流会とはまた別の組織だ。しかし、メンバー的には重なっている部分も多い。色々な団体がそれぞれの特色を生かして、色々な講演を開催してくれ、それに参加できるのがボストンに居る最大のメリットかもしれない。

講演の内容は小泉内閣後の自民党内の政治ゲームの内容と、これからの民主党の政権奪取の予想など。内容的には、まあこんな物かなといった感じ。主催者側のお願いも、「わかり易く今の政治状況などを話してください」と言う事だったので、致し方ないだろ。内容的に私の見識と先生の見識にずれが有ったものの、先生の政治家としてのスタンスなどは共感が持てた。

武見先生は講演内で衆議院選挙後の政局の大連立構想の展望等も御話になったが、個人的には永田町の政治ゲームには興味はない。所詮は左派政党同士の権力争いでしかない、だからこそ二大政党制等と語っておきながら、大連立なんて話も同時に出てくる。個人的に興味があるの衆議院選挙後の国民、特に若者の反応だ。

ここからが本題。

先の参議院選挙の頃からだろうか、若者の間で「選挙に行かない奴は、政治を語る資格はない」と言う様な論調の意見が目立ってきた。この考え自体は幼稚な考え方であって、選挙に行かなくても政治を語る資格はある、選挙だけが国民の政治参加権ではない。第一、選挙に行って政治活動をしている人間が、「選挙に行っても、政治活動をしていない奴が政治を語るな」と言ってしまったら先の意見は元も子もな無くなってしまう。「リアル」によって「資格」を得ると言う考えは幼稚だ。

しかし、この様な若者の考えが目立ってきた原因は、彼らが置かれている世の中の変わらなさや、社会の閉塞感に対してのフラストレーションが溜まっている表れではないだろうか。けっして優越感ゲームをしているわけではないだろう。事実、先の参議院選挙に置いて自民だけではなく、社民、共産の票が民主に流れた背景には、とにかく政局を変えないといけないと言う思いが価値観は違えど自民党でない唯一の対抗勢力と成り得る民主党に流れたからであって、けっして先の参議院選挙が民主党の政策が評価された結果でない事は民主党自身が承知している所だろう。

しかしながら、若者の「選挙に行かない奴は、政治を語る資格はない」と言った感覚は、先の選挙結果のそれ以上の物があると私は考える。その自身が抱える政治参加への多様性の無さによる危うさが、変革に加担しないものに対して敵意にも似た言論封殺的な発言に現れている。勿論、マスコミによる投票率の低さへ対する問題定義とそれが変革を遅らせていると言う意識が元に成っている事がその背景にあるが、もし選挙で大連立でも、民主党単独政権でも良いが、何か今の閉塞感が変わる事への期待に答える事が出来なかった時に、若者のフラストレーションと絶望感は何所に向かうのだろうか?
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# by gsocio | 2009-04-14 18:32 | 社会系
f0192765_16233795.jpg今月も交流会に参加させてもらった。

今回の交流会は参加者が非常に多く驚かされた。今回のテーマが開発系と妊娠という全く別の分野ながら、研究者だけではなく一般の方にも興味を持たれるテーマであった事が理由だろうか。

今回の発表の私の中での注目は後半の発表「妊婦を取り巻く臨床心理のかかわり」だ。男性の自分にとっては余り考える機会さえない事柄なので、この様な場で理解が深められることは有難い。

:以下引用

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「妊婦を取り巻く臨床心理のかかわり」(産婦人科医、臨床心理士の合同発表)

岸本早苗
Research Manager, Institute for Professionalism & Ethical Practice, Children’s Hospital Boston
ハーバード公衆衛生大学院(2008年卒) 臨床心理士

吉田穂波
ハーバード公衆衛生大学院
元ウィンズ・ウェルネス銀座クリック 産婦人科医

産婦人科、出産にまつわる皆さんのイメージはどのようなものでしょう?「お産は病気ではないのだから」といわれますが、妊娠、出産は様々な変化やリスクと隣あわせです。

産婦人科医の役割として、異常経過を予知し、対処をし、胎児に異常がなければ、これまで母体の精神面心理面は見逃されがちでした。心理面での不安をくみとる医師向けのトレーニングはなく、現場ではなかなかそこまで対応できないのが現状です。産科で働く心理士は、産科と精神科のリエゾンのような役割を担い、妊娠から出産後にいたるまで、患者の心理面の支援をしています。

今回の発表では、妊娠に伴っておこる体と心の変化やその対応、医師や心理士がどのようにチームで働いているのか等について、事例も用いながらお伝えし、皆さんと議論できればと思います。男性の皆さんにもぜひきていただき、女性への理解を深めていただければと思います。

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今回の発表で産婦人科に置いても心理士が必要に成って来た事がよくわかった。一昔前なら何らかの形で現在心理士が行っている妊婦の精神的なサポートを行える社会が存在していたのだろうが(もしくは日本的な女性に不の面を押し付けていただけかも知れないが)、社会の変化に伴い妊婦の精神面をサポートする存在がなくなってしまったのだと。

70年代の郊外化が進んだ時代でも妊婦は実家に帰って出産していたので、精神面のケアは実家の村社会的な物によって成されていたと想像するが、今はどうなのだろう?そう言ったものが無くなってしまった為に心理士必要に成ったのだと思うのだけれども。

現在の問題は社会が変わってしまったのにシステムがそれに追いついていないことだろう。もちろんシステムは往々にして社会変化を追う形に成るので仕方ないのかも知れないが。

ここで、この様な妊娠の議論のもう一つの問題は男性の参加が余り話されていない点だ。もちろん、男性は妊娠もしないし、今まで女性の妊娠に置けるサポートを担う必要性は経済面と医学の面に置いて以外は殆どなかったからだろうが、社会変化に伴い女性の妊娠に対して参加する事も求められる事になるだろう。この問題はマスの問題ではなく個の問題として捉える事が必要だろう。マスにも出来るがそれは効率的ではない。なぜならば一対一と言う濃密な関係が築ける環境においてマス的論理を用いる事は個々のきめ細かいサポートを無視する事に成りかねない。心理士の場合は受け持ちの患者が多いので一対一とは見ないので、マス的見方が必要だ。

その様な考えの下「男性が奥さんの妊娠中に株を上げるにはどうすれば良いか?」と言う質問をさせて頂いた。この質問の意味はいかに男性の参加を促すかにある。口でいくら参加を唱えても経験する事のけっしてない男性にとって妊娠は他人事でしかないし、それ以上になりえない。しかし、その事柄を元に自己の利益に繋がる可能性があるのであれば男性参加の理解も深まるはずだ。わかり易く言えば、男は女性の事は理解しようとはしないが、女性にモテる為に女性を理解しようとはする。

妊娠に係わる心理士の置かれている状況でも気になった事がある。それは心理士に掛かる事に抵抗がある女性が多い事だ。もちろん今の日本社会の精神障害者等に対する状況を考えると解らなくもない。しかし、知っておく事や、理解を深める事によって助かる事は多い。その前に心理士掛かる事それ事態は大した事では内規が私はするが。

この産婦人科における臨床心理士の状況が「性犯罪被害にあうということ」という本の内容と似ているなと思わされた。性犯罪被害者になった場合に、すぐに対処すれば防げたかもしれない後の色々な事柄もシステムは整っているにも係わらず、性犯罪被害者に対する日常の自己の偏見の目と情報不足から、対処が遅れる事は多い。例を出すならばレイプされた後に警察にすぐに行けばちゃんとした対応と医療的な対応もしてくれる、それにより望まぬ妊娠も防げる。勿論精神的ケアまでは対処できる事はないが警察に行った事により助かる面は大きい。しかい、現実はかなり遅れて被害届を出す被害者が多い、また著者のケースでもある様にその事柄自体を恥だと思う周囲(著者の場合は母親)の圧力によって被害者は全てを抱え込む事を強いられる。勿論、妊娠と性犯罪被害を同等に捉える事は出来ないが、比較できる要素は多い。

事前にある程度の知識と理解が本人と周囲にあれば的確に対処できる事柄は多い。これは妊娠に係わる臨床心理士だけの問題だけではなく、妊娠を取り巻く社会的変化全体にも言える事だろう。臨床心理士の社会的認知度をマスの視点から高めていく必要があるだ。

妊娠を取り巻く環境が個の面に置いても、マスの面に置いてももう一度見直す必要性が求められているのだと意識させられた今回の交流会だった。
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# by gsocio | 2009-04-05 08:20 | ボストンでの交流
f0192765_17362432.jpg今回の発表については書くか書くまいか迷ったが、一応書くことにした。理由は読み返す機会があるかも知れない事だろうか。後にこの時期に自分が何を考えていたか、わかる事は重要だろう。

今回の発表の注目は山本教授の発表

:以下引用

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「東アジアにおける科学技術活動のもつ安全保障上の意味」

山本 武彦
Research Fellow, Belfer Center for Science and International Affairs at the John F. Kennedy School of Government, Harvard University
早稲田大学政治経済学術院教授

―日米関係の枠組みのなかで―
 科学技術の発展は、一面で持続的経済成長を促す要因となり、他面で国家の安全保障や国際安全保障のあり方に重要な変化を及ぼす要因となってきた。言い換えれば、日進月歩の勢いで進む科学技術活動は、人間生活の進歩にとって欠かす事の出来ない成果を生み出すと同時に、大量破壊兵器や高度通常兵器の技術革新を促すという二面性を常に纏う。こうした二面性を前提にして国々の政策決定者は、科学技術が宿命として抱える国家安全保障と国際安全保障の契機を意識しながら自国の科学技術政策の策定に勤しむ。

 どの国家も自国の与件を前提にして安全保障政策を策定するが、自国の生存に関る地戦略を次のような公式にしたがって描き出し、そしてそれぞれの国情に応じて自国の地戦略的利益を追求してきた。

 地戦略(geo-strategy)=地政学(geo-politics)+地経学(geo-economics)

問題は、このような公式に科学技術活動がどのような影響を及ぼすかである。結論を先取りしていえば、科学技術活動は地政学と地経学を接続する媒介変数としての意味をもち、政府は自国の国益のためにこれを「囲い込む」誘惑に駆られる。すなわち、地技学(geo-science and technology)的な意味づけを与えてしまう。 わけても軍事科学や軍事技術の最先端分野の研究は、自国の地政学的利益を確保するためにその内容は秘匿対象とされる。しかも、これらの科学技術活動のほとんどは民生目的をも共時的に追求する。いわば、軍事・民生両用の科学技術活動として展開される。最先端の研究であればあるほど、それらは国家安全保障上の目的と国際競争力維持の目的から研究内容は秘匿対象となる。

 このような問題意識から、アメリカが1980年代以降、現在に至るまでに一貫して追求してきた地技学アプローチが、日米関係の枠組みのなかでどのように作動し、時には対立の局面を彩り、ときには協調の力学を生み出してきたか、その赤裸々な実相を描き出す。

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今回の山本教授の発表をわかり易く言うと、「軍事転用可能な科学技術を自国の安全保障の為に独自に囲い込むか」。

歴史的に軍事からの科学技術の転用によって民間の技術は発展して来た。しかし戦後日本は軍事開発が制限される中で民間がしたからの技術開発を進めてきた。だが、その民間の技術も当初の意図とは違う方向の軍事転用可能な物となってしまった。個人的な考えでは善にしか使えない技術なる物が存在すること事態に疑問がある。使う人によって悪にも善にもなる物が技術だと思うのだが。ここでの問題は大規模なテロ等の軍事転用が問題と言う事なのだろう。

日本の技術が海外を経由して北朝鮮のミサイル開発に使われている事も、科学技術の安全保障上の意味がないがしろにされた結果かもしれない。

しかしながら、教授も講演内で指摘していたがあ、日本の安全保障はなぜかアメリカの言いなりに成っている事が多い。もちろん日米同盟などの関連性もあるのだろうが、それでも不思議な程の言いなりであると。

今回の山本教授の講演で最も疑問に思った事はここであった。

日本の技術的な安全保障がアメリカの言いなりである事を無視して、自国の軍事転用可能な科学技術をいかに自国の安全保障の面に置いて囲い込むか等と議論しても全く意味が無い。

もちろん、日本とアメリカの二カ国の安全保障を一つと考え、アメリカの下に日本が付き安全保障を考える前提があれば話は別であるが、それならば日本の軍備、科学技術の安全保障がアメリカの言いなりに成っている事を問題にする事はおかしい。

この議論に欠けている事は国家の成り立ちと、国際関係の根本的な考えだと私は思った。

マックス・ウェーバーの肩に乗ると、国家はその地域に置いて暴力を独占した者が作ったに過ぎない物である。ここで言う国家とはフィジカルである。何となく国家、国民形成論が蔓延している中ではこの問題は忘れ去られがちである。もちろん、国境と領土による国家の脱人格化等があるのでウェーバーの国家論は少し修正して応用する必要はあるだろうが、根本にある国家=暴力の独占と言う考えは間違っていない。

この考えは国際関係にも反映される。国際関係に置いて全ての国々を統治する組織は存在していない。その様な中では強制力のある法なる物も存在し得ない。あるとすれば個々の国同士の制裁等による強制力のみである。その様な中で、自国の安全や優位性を担保する最後で最も有効な武器は軍事である。それも絶対的な優位性がある事が重要である。無論その優位性を持ち得なかった国は持ちえる国の傘下入る事はなんらおかしな事ではない。弱い部族がより強い部族の傘下に入る事は弱い部族にも自分達の生存が危ぶまれる物ではないのであれば一定のメリットと成り得る。ここにおいてこの二つの部族は一つの国家らしき物へと変化する。冷戦時を例にとって見るとわかりやすい。二つの強大な暴力を持った部族が多くの周辺部族を自部族の参加に従えてにらみ合っていた。

しかし、傘下にある部族はけっして支配する部族の脅威となりえる暴力を持つ事は許されない。何故ならば、それは国家に置いて国民または何らかの集団が国家の存在を脅かす存在を容認しない事と同義である。

それらを踏まえて今回の山本教授の講演の「軍事転用可能な科学技術を自国の安全保障の為に独自に囲い込むか」と言う問い自体がどれ程の意味があるのかが私にはわからない。何故ならば囲い込んだ先が全く議論されていないし、前提にある日本とアメリカの関係に対する根本的な認識もずれている。

もしかしたら山本教授の立場上言えない事もあったのかも知れない。そのために山本教授ほどの教養の有る方の講演の内容がこの様な形に成ってしまったのかも、とも思う。



今回の交流会では質問時に過激な発言をしてしまった事を御詫び。



過激な質問をしたが本当のメインのポイントの質問は、何故日本はアメリカの言いなりにこうも成っているのか?本当は言う事を聞かないと行けないと思い込んでいるだけではないだろうか?と言う事だったのだが、そこに到達する前にタイムオーバーで終わってしまった事に後悔。



後の懇親会で講演時に一部失笑をかった私の過激な発言に対して擁護してくれた方が居たのは、嬉しかったが、それで良しと思ってもいけないと思った。
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# by gsocio | 2009-03-21 08:45 | ボストンでの交流

教師って何だろう?

教師が生徒に夢を与える事は大事だろう。

しかしそれも生徒の年齢にもよるだろう。

生徒の将来が輝かしい物ではなく、大した職にも就けないし刺激の無い日常である事を告げる事はどうなのだろう。

夢を語る事が教師の使命か。

それとも、現実を告げ、それでも生きていかなければいけないと言うのか。

夢を語って生徒は信じるのか。

過酷とも取れる現実を受け入れさせるのか。

でも生徒は夢を信じるのだろうか、現実を受け入れるのだろうか。

夢も将来も現在の現実ではないし。

夢を語る教師は無責任か?

過酷な将来を告げる教師は職務放棄か?

理想論は理想の教師と生徒の上では成り立つものなのか?

そんな事もない気もするが。

色んな人生があっていいと思うし、それを受け入れる事が大事だと思うけれども。

理想が押し付けになった時、理想は絶望に変わる。
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# by gsocio | 2009-03-15 13:56 | 社会系
f0192765_21531942.jpg日本から社会的包摂性が失われて久しいといわれている。社会的包摂性なんて言うと大きな話に聞こえる、なのでそれに対する対処も大きなレベルでと考えるが、社会が複雑化してしまうと上から何かすると言っても効果が期待通り行くかといえば難しいだろう。

小さな政府の理念は、政府を小さくする代わりに大きな社会で支えよう、と言う考えだ。実際は政府が小さくなると社会も小さくなってしまった。では政府を大きくすれば良いかと言うと、社会の複雑化が大きく横たわる。一つの方法論で世の中が上手く回らなくなってしまっている。個々の問題、地域、や人にあった方法で対処する必要があるだろう。もちろん個々の対処法に対する知識の共有は大切だが。そうなると、これからは地域組織や個人などでの小さな取り組みこそが大事になって来るだろう。自分達の事は自分達で解決する事が重要に成ってくるはずだ。

しかしここでも問題がある。自分達の「達」とは一体誰なんだと言う事だ。この問題が解決されなくては話が前に進まない。これも社会の複雑化と密接に関係する。しかし、考え方を変えると、「自分達」は「みんな」では無い。そこには何かしらの共有する物が存在するし比較的ゴールも近いので、社会の複雑化も少しは緩和されるだろう。自分達の「達」を集める方法は色々在るだろうし好きな方法でやれば良いだろう。エクストリームな形だと「高円寺、素人の乱」なんて物もある。

小さなところだとこんな話があった。

フリーターでプラプラしていた女の子が、パンク・メタル系のショップでバイトを始めその後社員になった。その女の子が働いていたショップにはそのカルチャー的な理由もあるのだろうか、お客の中にはリストカットをした事がある女の子等も居た。そんなリストカットをしてしまった女の子達と彼女はショップと言う空間で段々とつながって行った。彼女が働いていると、よく来るお客のリストカットを経験した事のある女の子が来た。彼女が「今日は何をお探しですか?」と聞くと、女の子は「いや、特に無いんですけど話がしたくなっちゃって」と少し悪そうに言った。彼女はその女の子と少し世間話をし、女の子は帰っていった。ショップと言う空間の中で彼女とその女の子は共有できる何かを持ち、女の子は少し話が出来た事で救われた部分もあっただろう。小さな事かもしれないが、彼女とショップと言う空間が「達」をなし包摂性となりえた。

自分も中学の頃学校に行かずに町でプラプラしていた。後ろ指も差されたし、心無い事を言われる事もあった。もともと上からの力に反発してしまう性格の自分が選らんな自分の人生の代償なのだから仕方ないと思いつつも、中学生の精神力で周りの大人の目を完全に無しする事は出来るわけも無く悩んだりもした。しかし、地域の商店でプラプラしている自分を見かね、「うちで働かないか」と声をかけてくれたおばさんがいた。働くと言っても店番をしているだけなので大した事では無いけれど、自分がどの社会に置いても風景と化してしまっている中、自分に承認と繋がりを与えてくれた。今でも、もしあの時に声をかけて貰えなかったら今の自分は無いかもなと考える。しかしそんな社会的包摂性はもう無いだろう。

一度失ってしまった物をもう一度取り戻す事は容易ではない。さらに社会的包摂性を失った社会がもう一度社会的包摂性を取り戻した例はまだ無い。状況は深刻だけれど前例が無い事からこそ色々出来るので、自分にとって一年位先の帰国は楽しみだ。

善い事と思って行った事が不の作用を生んでしまう事も多々あるのでそうならない様に今は勉強の毎日。

凡人に出来る小さな取り組み目指してみようかな。
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# by gsocio | 2009-03-11 21:57 | 社会系

草食系男子って?

f0192765_20262946.jpg日本では流行言葉で草食系男子なるものがいるらしい。

もともとその言葉自体は知っていた。きっかけは森岡氏の本だ。しかしここまで流行っているとは知らなかった。

しかし森岡正博氏の草食系男子の恋愛学の内容を見るとどうも納得が行かない部分がある。何故ならば、簡単に男性を分けると、がっつき男性と奥手男性に分ける事ができる。この両者は肉食であるが、草食系男子は肉食ではない。ここで言う肉とは女性であ。そこで問題になるのは草食系男子の草とは何であるかと言う点だ。その答えは森岡氏はその事に付いては触れていない。もともと森岡氏の使う草食とはガツガツ=肉食で、その対比語として草食であるのだろう、つまり草食=ガツガツしていない。しかし一番の問題は森岡氏の草食系男子がただの自意識が強い奥手男子にしか見えない所だ。奥手男子は昔からいたし、彼らは肉食だ。けっして草食ではない。森岡氏の本も奥手男子の恋愛指南書といった感じだ。

では草食系男子とはいったい何なのだろう。肉食系男子の対比語として使われるのであるならば、肉=女性に興味が無い事になる。例えば、女性と同じベットに寝ていても何も起こらないし思わない。はっきり言ってそんな男は居ない。いや、居るには居るが殆ど居ない。またそう言った状況になる男子事態の数は少ない。それでも話を続けると、草食系男子とはモテる、がっつかない、セックスも出来るけどしない興味が無い男子だ。奥手、自意識が強い、好きな人もいる、モテるわけではない男子は隠れ肉食で、言ってしまえば弱い肉食獣(チキン)でしかない。

多くの男性からすれば草食系男子が成り立つのはモテる事が前提にある。非モテの男子からすれば羨ましい話でしかない。

しかし、ここでの一番の問題は男子には無い。肉食であろうが草食であろうが男子にとって本人がしたいようにしているだけでしかない。もちろん隠れ肉食男子の増加の原因を探る事は必要だが。

では一体何が問題なのか?草食系男子はもともと人事の「この頃の男子は使えない」と言う安定指向型の男子に対する労働問題から始まった事であるようだ。そこから生まれた言葉が草食系男子。

その草食系男子のガッツいていない所が今問題に成っているのは男女関係である。男女関係と言うよりも女性側の問題だろうか。わかり易く言ってしまえば肉食の男子と女子の数は一定数必要で、食べる者と食べられる(罠にかける)者が存在して成り立っていた。が、しかし草食系男子と隠れ肉食が増える事により食べる行動を起こす者の数が減ってしまい、主に食べられる側だった女性が食べる側に回らなければ行けなくなったフラストレーションがこの問題を注目させている原因だろう。も一つの原因は男性の消費が恋愛から他の物へと変わった経済的な理由だろうか。

草食系男子の問題の本質は意外と別の場所にあるようだ。
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# by gsocio | 2009-02-24 18:40 | 社会系
f0192765_14492317.jpgハーバード・エクステンションの哲学のクラスを落とす事に決めた。理由はクラスが少し大きすぎる事による一方通行的なレクチャーになる気がした事。そして、意外と基礎過ぎた事。確かに大学は違えど基礎は一緒かもれない。逆に言えば、違っていたら困るか。

このクラスはアイデンティティーについてだ。アイデンティティーと何であるか。自分を自分たらしめる物はいったい何なのか。

簡単に言えば「承認からなる尊厳」。しかし、世間では「脱アイデンティティー」と言う考えが一部の知識人と言われる人達や学者等から出ている。確かに承認や尊厳が得られない人達が増えている。そんな人生は辛い、ならば承認から脱した「脱アイデンティティー」的考えが生まれるのも理解できる。しかし、アイデンティティーを放棄するのと、アイデンティティーを失うまたは持てない事はまったく違う。無我の境地に辿り着けたお坊さんは好いが、無我の境地に突き落とされた凡民は辛い。

さらに言えば「脱アイデンティティー」を論する人達が「脱アイデンティティー」によってアイデンティティーを得ている。ブラックユーモアとしか言いようがない。そんな事よりも、承認と尊厳が得られないのは社会構造が変わってしまったからであり、その中でどうしたら新たな形で承認と尊厳を得られるのかを論じた方が好いと思うのは私だけだろうか?

昔は何かをすれば承認と尊厳が得られた。結婚すれば一人前。いい大学、いい会社に入れば立派。しかし今はそんな事も無くなって来た。社会が多様化し流動的になり、会社に置いても入れ替え可能な存在でしかない自分に承認と尊厳は与えられない。そう言った認識の中、出来る奴はハイパーナ一番を狙い承認と尊厳を得ようとし、出来ない奴は承認も尊厳も得られない不安の中でさ迷う。

でも、今は形は変わってしまったけれど、承認も尊厳も得られる。承認と尊厳はポストや肩書きではなく、身近な人との長い関係によって得られる物る、決して何かやればOKと言うものではない。でも、ちょっとやそっとの事じゃあ揺るがない。

そう言った関係が持てない事が問題なのかもしれないが。決してそう言った関係で承認と尊厳を得ている人は少なくは無いと思うんだけれど。
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# by gsocio | 2009-02-04 16:04 | 学問

Google Chrome

f0192765_12502557.jpg12月にPCがついに起動不可能になってしまい新しくPCを購入した。

前PCは一度煙を出した事もあったけれど、その後2年ほどがんばってくれた。

しかしOSがヴィスタのなので、IEが結構な遅さ。特にリンクから新しいウィンドウを開く時にかなりの時間を要する。XPとの差が余りにもあるので、耐えられない。こうして考えると昔は電話回線でインターネットをしていた時は気が長かったのかと思わせられる。実際はあれが最速の時なので知らないものは欲しない、不満に思わないだけだったのかもしれないが。

そんなIEに耐えGoogle Chromeを使ってみることにした。乗り換える判断は遅いかもしれない。

Google Chromeのインターネットのスピードは申し分無い。なかなかいい感じに動いてくれる。しかしもう少し表示も設定ができるとありがたいかなとも思うのは、欲張りすぎだろうか。

でも、新しいブラウザなので、これからに期待したい。
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# by gsocio | 2009-02-01 12:55 | ボストンの学生生活

mixi日記から見るフック

f0192765_19114026.jpgmixiのニュースに関する日記を読む事がある。中には、おっと思わせる日記もあるのだが、大体は感情論的な物、笑えるねた、または簡単なコメント程度の物が殆どだ。

日記を書き公開すること自体が全体としてはまれなので、これを見て全体とは捉える事は出来ないのだけれど、これはこれで興味深い。

ネットの発言は匿名性等の関係から過激になりやすい向上がある。ニュース記事に関する日記も過激にはなる。しかしながら、マイミク制度があるミクシイにおいては近い友人に自分の過激な発言が読めれる事になるのでミクシイは完全な匿名性は存在しえない。これはこれで興味深い。

もちろん一人で二つのアカウント持っていたり、マイミクにリアルな友人が一人も居ないなんて事もありえるのでなんとも言えない。しかし、一つの流れとして存在している。

その流れのなで、障害者が加害者または被害者になる犯罪に対する、日記の反応の違いが興味深い。障害者が犯罪加害者になる場合は、即死刑や隔離するべきと言った日記がおびただしい数をなす。また反対に障害者が犯罪被害者になる場合は、加害者を即死刑や重罰を望む日記があふれる。もちろん過激な日記や全体の流れに反する日記の中には釣りも含まれている。

日記の中で書かれる障害者は犯罪加害者の場合は危険人物であり、犯罪を犯していない障害者までもが危険とも取れる日記も目立つ。それとは対照的に障害者が犯罪被害者の場合はまるで障害者が健常者よりも格段にイノセントな存在であり、その様な存在に対して罪をなした加害者に対し重罰を望む日記が目立つ。

重罰化などの意見はネットの発言は過激化するのでと言ってしまえばそれまでだが、障害者に対する考え方が感情的であり、加害者または被害者であれ差別的である事には変わりは無い。

障害者と言う言葉による極端な二極化。ここで考えられるのは、障害者と言う言葉自体に感情のフックが存在しているのではないか。障害者と言う言葉からなる共通前提が存在し(加、被によって異なるが)それを使って多様性の中に生きるフォビアは失われた統一性を取り戻そうとしているのだろうか。


注意:ここでの障害者は一応、知的、精神障害者です。
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# by gsocio | 2009-01-29 15:02 | 社会系
f0192765_1142081.jpgスプリング・セメスターは研究だけでは少し暇すぎるので、ハーバードのエクステで哲学と仏教のクラスを取る事にした。ホームページで今大学で一緒に研究をしている教授が最初のホームページのスライドで出てきた。意外とまじめに教えているようだ。

哲学はおさらい的な目的。大学で哲学のクラスは幾つか取ったし、2~5人位のフォーカス・クラスも多く取ったのではあるが、やはり専攻が哲学ではないので知識と思考は蓮根的。

仏教はチベット仏教に付いてのクラス。仏教に軽く興味があったので、取ってみる事にした。環境が宗教形成にどの様な影響を与えたか、なんて事も解れば面白い。

どちらのクラスも後の社会学の勉強に応用できれば良いなと思ってはいるが、底の所ではただ単に興味や知りたいから取る事になったのだろう。
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# by gsocio | 2009-01-22 11:34 | 学問
f0192765_11354100.jpg卒論を書き上げ、ディフェンスも終わりました。

たいした論文ではまったく無かったけれども、明日出来る事は今日やらない、タイムマネージメントが苦手な私には結構大変だった。

卒論はこんな感じでした。

「日本の雇用システムの変化によるコンピテンシー理念の変化と矛盾」

内容は本田由紀氏のハイパーメリトクラシー社会における若者の雇用問題に近いながら、アメリカの雇用システムとコンピテンシーを日本のものと比較し、解決策を本田氏の個々の専門性を高める事が重要とするのに対し、私は企業の採用システムに置けるコンピテンシーの鮮明化に解決策と考えた。

問題はそれだけでは無いのだけれど、あまり大きくし過ぎると何がなんだか解らなくなってくるので、今回はコンピテンシーに争点を当ててみた。

日曜日に他にやっている研究のレポートをクラスメートと簡単に書いておしまい。

この研究はまだ終わってないのでこっちに残って続ける予定ではあるけれど、一応卒業かな。
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# by gsocio | 2009-01-09 00:51 | 学問
f0192765_21163066.jpg今月もボストン日本人研究者交流会に参加してきました。

学期末の忙しい時期にもかかわらず、多くの方が参加されたいた。ボストンの日本人研究者の方々の知への探究心が旺盛なせいだろうか。と言っても交流会に来た事もない研究室に篭っている研究者の方も多くいるのだけれど。

この日、なぜか胃が痛かった。

今回の注目は、以下引用

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「音楽学とは何だろう? ~音・楽譜・演奏~」

沼野 雄司
Harvard University音楽学部 visiting scholar
桐朋学園大学

「音楽学」という学問があることをご存じですか?もちろん音楽に関する学問であることは、字づらを見れば誰にでも理解できるでしょうが、具体的にはどのようなことを研究するのか、イメージできる方は多くないでしょう(ハーバード大学に「音楽学専攻」があることをご存じの方も少ないのでは?)。そこで発表の前半ではまず、音楽学が対象とする広大な領域が、実は皆さんの研究分野のすぐ隣にあること、そして我々の生活のすぐそばにあることを伝えてみたいと思います。

そして発表の後半では、クラシック音楽の象徴といえる「楽譜」を取り上げて、様々な視点から考察を加えます。どのような経緯を経て、現在の五線譜に到達したのか、その特徴とは何か、そもそも楽譜とは一体何のためにあるのか、「音楽作品」とは楽譜のことなのか・・・。こうした基本的な問題について、いくつかの角度から光を当てるとともに、楽譜があるからこそ生まれる様々な解釈=演奏について、具体的な例を音で聴いていただきながら、一緒に考えてみたいと思います。

また、時間に余裕があれば、私なりの立場から、お子さんに音楽を学ばせる場合にとりわけ重要と思われる点について、いくつか述べておきたいと考えています。

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音楽学という今までバークリー音楽大学等にも知り合いが居るにも拘らず、あまり関わり合いがなかった学問という事もあり、大変興味深く発沼野氏の表を聞かせていただいた。沼野氏はクラシック音楽がバックグランドと言う事もあり、クラシック音楽を中心に音楽業界や、音楽史奥深さ等短い時間の中で大変興味深い発表をされた。

クラシック音楽業界の資金難は深刻なようで、このままでは日本のクラシック音楽は衰退してしまうのではないかとも思わせられた。会場の集客人数とオーケストラの演奏家人数を考えればどう見てもキツイしその上に会場の使用料等のもろもろが加われば採算はどう考えても取れない。採算を少しでも合わせる為にチケット代を高くするほか無く、そうすると興味ありお金がある人しか来ない。

もともとクラシック音楽はハイカルチャーであり、ロック等のローカルチャーと違い極一部の人々により愛され維持されて来ていた背景を考えるならば、日本に置いてパトロン抜きで維持する事は難しいだろう。パトロン的文化が無い日本においてパトロン抜きで成り立たないクラシック音楽で食べていく事は無理なのかもしれない。

市場原理から考えるならば利益が上がらないのであれば、要らない物として衰退していてもよいとなるかもしれないが、社会的価値から言えば利益が上がらなくても社会にとってよい物ならば維持していく必要がある。

クラシック音楽の中には偉大と言われる音楽家により何世代にもわたり愛され演奏され続けて来た曲がある。その価値は高い低いは関係なく絶対的と言ってもいいかも知れない。

流動性が高まる現代に置いて、ポップ音楽は条件さえ合えば取り替え可能な物の一つである。個人の心情や状況にシンクロする事によって愛されるからだ。しかし、クラック音楽にどの様な価値があるか私には解らないが、ポップ音楽と違い個人の心情や状況にシンクロさせる形ではない(歌詞無いので)形で人々に愛されるには何かがあるに違いないと思わせられる。

逆に言えばそう言った形だからこそ、長年にわたり同じ曲が演奏され続けてきたのかもしれない。

流動性が高まった社会に置いて、絶対的価値が存在する物こそが個人にとっても社会にとっても大事な物として認知される。なぜならば取り替え可能な物は取るに足らないくだらない物でしかなくなるからだ。

実は現代こそクラシック音楽が社会に価値のある物として認められるチャンスなのかもしれない。
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# by gsocio | 2008-12-13 21:40 | ボストンでの交流
f0192765_17473582.jpg宮台真司氏が昔中央大学での講演で、この様な事を言っていた。

友人や恋人であろうとも窮地に陥った時にどの様な行動を取るかを見るまではその人物が本当はどの様な人物であるかは解らない。日頃、愛他的な事を言っていても窮地に成れば真っ先に逃げる奴もいる。日頃思いやりがある事や、社会性がある様に見える事はそれはそれで一つの価値のあるものではあるが、相対的なものに過ぎない。窮地に陥った時になって初めてその人物のプライオリティーがはっきりと見えてくる、そして本当はどの様な人物なのかも。窮地に陥らないとその者が真っ先に逃げる奴かわ解らないので、窮地に陥るまではその人物をホールディング状態にしておく。また自分も窮地に立たされるまで自己のプライオリティーは解らないし、自分がどの様な人物であるかも解らない。そう言った温い状態で自己がどの様に考えていても、話半分に考えていた方が良いだろう。

私はどの様な人物なのだろうか?

いまだ皮一枚と言った窮地に陥った事が活動も場面も無い気がするので、解らない。確かに日頃自分がどの様な事を言っていても窮地に立たされた時に日頃の発言や振る舞いと同じ行動を取れる自身はない。しかし、だからと言って反対の行動を取ったり、プライオリティーが逆転したりとまでも考えずらい。早い話が、全くわからない。

窮地に立たされるまで自分がどの様な人物か解らないのであれば、自分を解るには自己を窮地に立たせる事こそが、自己を理解する上で最も有効な手段となるのだろうか?しかし、窮地に陥る状況を自分でわざと作ってしまっては本当の窮地にはなりえないかもしれない。で、あるならば、自分が窮地経たされるのを待つほか無い。ならば、自分が好きな事、信じる事をやり窮地に立たされるまで待つほか無い。たとえ窮地に立たされた時に自分がどの様な人物である可と言う事が自分の考える物とは違い、保身的で軽蔑しうる物であったとしても自分はそう言った人物であるのだから受け入れるほか無い。そこから成長するほか無いのかもしれない。

今は話半分に自己を理解し、したい事をするのが一番なのかも知れない。本当の自分はへたれならばそれもしょうがない。
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# by gsocio | 2008-12-01 14:39 | 社会系

MILK

f0192765_19212343.jpg映画「MILK」はアメリカで初めてゲイである事を公表し選挙で選ばれ公職に付いた人物である、故ハーヴェイ・ミルク伝記である。

映画はミルクがもし自分が暗殺された時のみ再生すべしと残されたテープにミルクが遺書を録音している所から始まる。その中で解るのはミルクは決して若き日から志の高い人物ではなかった事や、彼が起こしたムーブメントが決して平坦ではなかった事が解る。そして彼がサンフランシスコに行くまでゲイである事を隠し、脅えて生きていた事も。

しかしミルクは会社にゲイである事がばれてしまい会社を解雇されてしまう。それをきにミルクはパートナーのスコットと共に当時の他のゲイ同様にサンフランシスコに移り住みカストロ通りにカメラ屋を開く。そして、この店とカストロ通りから全てが始まる。後にカストロ通りは世界最大のゲイタウンに成って行く。

映画の中でミルクはゲイの観衆に向けてこう言う、

「My name is Harvey Milk. I wanna recruit you」

実際はミルクがゲイではない集会等での観衆に向けて演説する時の最初の決まり文句だったのだが、この映画の中ではゲイの観衆に向けて少し違った意味合いが込められている。それは、ミルクはゲイの人々を民主主義の世界へとrecruitしたかったのだ。キリスト教社会のアメリカに置いてゲイであると言う罪の意識が場合によってはあるためか、耐え忍んできた理不尽な差別に対して、民主主義に参加する事こそが自らの生存権と、権利そして義務を守る事に繋がると言う意味が込められている。彼はクローゼットの中に隠れていたゲイの人々にだけではなく全てのマイノリティーに向けてこのメッセージを送っていた。

ミルクは決してゲイだけの為に活動はしなかった。何故ならゲイだけの為に活動すれば他の例えば黒人が弾圧され差別されようとも見ない振りをする。これでは、我々をゲイゆえに差別してきた人々と我々は同じに成ってしまう。そしてミルクは他のマイノリティーグループと協力体制を作っていく。そして終には、アメリカで最もマッチョなトラック組合までも仲間に引き入れてしまう。ミルクは決して高い理想だけを語る政治家ではなく。高い理想を持ちつつもプラグマティックに政治活動を行える所も兼ね備えていたのだ。そして、政治的野心も。

彼は演説で全てのゲイはカミング・アウトする様に呼びかける。それは彼ら自身の為ではなく、子供たちの為に。田舎で生まれた子供は自分がゲイである事に罪の意識を感じ誰にも自分がゲイである事を言えず、誰かを愛する事も出来ず愛される事もなく、希望の無い人生を送らなければ行けない。しかし、もし全てのゲイがカミング・アウトすればメディアを通じて色んな(有名人や身近な人)人々がゲイである事を田舎の子供は知り、未来に希望が持てるようになる。これはゲイだけなく、黒人もアジア人もどんな障害者も希望が無ければ生きられないのだと。

これは今の日本にも言える事だ。今日本で未来に希望が持てない人々がいる。その中には生存権が脅かされている人も多く居るだろう。未来に希望が持てないとほざく中学生のかっこつけだけではない幻滅感。共同体を失い、根が無いが為に柱にすがるへたれネット右翼。ハイパーメリトクラシー社会において、今までの積み上げた物を否定された勉強田吾作。障害があるがゆえに恋愛を諦める人々。生まれのせいで差別される人々。他にも数多くの希望を持てない人々が日本には居る。彼らにも生きていく為に希望が必要なのだ。

そんな彼らを纏め上げるリーダーや、彼に纏まる各グループのリーダーが日本には居ない。居なくも無いのだけれど数が圧倒的に少ない。日本には学問、行政、財界エリートは居ても市民エリートが少なすぎるからだ。

話を戻して、「MILK」は素晴らしい映画です。彼が暗殺されて今月27日で30年成ります。しかしそんな中、カリフォルニアでは同性愛の結婚を禁止する法律が可決されました。ミルクが目指した所はまだ遠いようです。
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# by gsocio | 2008-11-29 22:53 | 映画の批評

Thanksgiving

f0192765_6413799.jpg感謝祭はアメリカのビックイベントなのですが、当初のインディアンに対する感謝などの目的は現在は何時もお世話に成っている人に感謝する日と成り、家族で過ごす日と成っています。社会的価値が時間と共に変化した結果かもしれません。これを当初の目的の風化と取るか変化と取るかは個々の思いによる所でしょうか。

そんな感謝祭に、我が家では七面鳥を食べました。仕込みの24時間+焼き時間に5時間。丸焼きは結構な大作でした。
f0192765_6422614.jpg
どの家にもキッチンに大きなオーブンが有るアメリカだから出来るのかも知れません。私はあまりターキーの淡白さが好きに成れないので仕込みに時間を掛け、スパイスとレモンの大量に入った水に丸一日漬け込んで焼きました。

焼きあがったターキーは一緒に焼いた周りの野菜と同様少し小さくなっていますが、その分味も凝縮され、淡白感少なく美味しく食べられました。
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# by gsocio | 2008-11-27 06:44 | ボストンの学生生活

食の安心のコスト

f0192765_20433954.jpg食というのは日常の楽しみの一つでもある。昔は生存するために食事を取りエネルギーを補給しなければ行けなかった。現代においては食事を取る事は生きる為に必要なエネルギーを取るだけではなく、味覚に置いて美味しいと思うもので無くてはいけない物でもある。さらに言えば価格的にも低い物が好ましい。

そんな問題を解決したのが食品添加物だった。安く、美味しく、見た目も良く、子供にも美味しいと言って食べてもらえる。食品添加物まさに主婦の見方であり、誰も食べないような肉を美味しいミートボールに変える事も出来る、企業にとっても素晴らしい発明だった。

金融錬金術なる物が存在するならば、食品添加物は食品錬金術と言って過言ではないだろう。何故なら、食品添加物を使えば、同じ味を出す事も以前の数分の一のコストに抑えらる。さらに、大量生産も容易だ。

添加物アドバイザーで『食品の裏側』の著書で知られる安部司氏の議論は興味深い。安部氏は子供に大人気だったミートボールの生みの親であり、ミートボールのマーケティング戦略においても大きな役割をなした。そんなやり手の営業マンだった安部氏ある日、自分の子供が自分が開発したミートボールを美味しそうに食べているのを見た安部氏は衝撃を受ける。自分が自信を持って開発し、販売してきた物が自分の子供には到底食べさせる事が出来ないものだったからだ。勿論、ミートボールは安全な食べ物である事は安部氏も認識していたが、ミートボールがとても肉とは言えない食品添加物の塊である事も開発者である安部氏は誰よりも知っていた。そして安部氏は食品化合物商社を辞めた。

安部氏が目の前で化学調味料などを混ぜて再現する物を見て、嫌悪感を持つ所か私は興味がそそられた。安部氏が30秒で作り上げる豚骨スープや、水とサラダ油だけでで作った乳製品が一切入っていない喫茶店などで出てくるクリームのコーヒーフレッシュ。化け学的なこれ等技術にはただただ驚かされた。

安部氏議論の興味深い所は、食品添加物を使う企業や、規制しない国が必ずしも悪いと考えて居ない所だ。添加物にも一定のメリットがあり、その恩恵を一番に受けているの消費者である我々だからだ。現代人は忙しい。共働きの母親に全て手作りで添加物を一切使わないで料理をしろと言うのは無理がある。勿論、父母二人でやっても無理だろう。さらに言えば、添加物の味に慣れた子供は添加物無しの食事は美味しいとは、なかなか思わない。

独身者も同様で、コンビニのお弁当は食品添加物のオンパレードだが、我々はそれ無しでは生きて行けない。我々現代人は食品添加物の恩恵をフルに受けているのだ。

では、我々一般の人々はなすすべは無いのだろうか?

安部氏によると、とにかく知る事、そしてなるべく添加物の入っていない物を少し高いかも知れないが選ぶ事が大事だと言う。そうすれば今の売れない物は売らない流通制度なら三日で流れが変わるそうだ。何時もは無理でも、月に一回でも二回でも少しずつ変えていけば流れは変わる。そうすれば子供に安心して食事をさせられる日も来るだろうと。

しかし、そうなったら我々は今の様な安く、美味しく、見た目も良く、日持ちの良い食品を諦めなければいけないのだ。我々はその様な生活に耐えられるのだろうか?価格は所得が低い家庭には大問題だ。味覚は刺激的な添加物の味に慣れた若者には添加物の入っていない食べ物は味気ない物になるだろう。見た目にいたってはコンビニのお弁当は地味な物になり、白米の光沢は消える。日持ちの悪い食品は我々に取っても企業にとって大問題だ。

もっと安く、もっと美味しくと消費する事ばかり考えてきた我々が、食品添加物がある事によるメリットとデメリットを天秤にかけて確りと議論する必要があるのかもしれない。

ただ、自分が食べる分には良いのだが、自分の子供が食べる事にはやはり抵抗がある。また、コンビニの弁当を毎日食べさせたブタの羊水が真っ黒になり、全てのブタが流産か死産した事を聞くと、ブタと人では害作用も違う事は解っていながらも、これから産まれて来るかも知れない子供の為に添加物の入った食品の量を減らそうと私は考え事は、ヒステリックな反応だろうか。

味が薄いので満腹感は得られないし、価格も高いので腹いっぱいにも食べられないが、質素でも安心して食事がしたいと、私は素朴に思う。

この問題は誰かが悪者に成れば済む話ではい、しかし最も解決する力を持っているのは我々消費者だ。消費者一人一人がその事を考え取り組み、この流れが変わればトップダウン式だった人々の意識が、変わる兆しが有るかも知れない。この問題に一人強力なリーダーは要らない、我々一人一人が当事者のリーダーなのだから。
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# by gsocio | 2008-11-24 17:04 | 社会系
f0192765_20482991.jpgスピリチュアルブームがいまだ続いているようです。それに関連して、ヤフーのニュースに面白いのがありました。

疑似科学やオカルト… なぜ、だまされるのか?

立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎氏によると、以下引用。

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科学技術が進歩したこの時代に、人はなぜ、「スピリチュアル」にはまるのか。安斎さんは、それこそ、「なぜ」と問う力が弱まっているからだと嘆く。

 例えば、携帯電話やDVDの仕組みは、説明されても理解するのが難しい。科学が進歩したがゆえに、人は自分の理解の範疇(はんちゅう)を超えたものをそのまま受け入れてしまいがちで、それが超能力などを簡単に信じる傾向となって表れていると説明する。

 「ささいなことでも、『なぜ』と意識的に問い直してほしい。その背景には必ず理由があるのだから」

 さらに、“インチキ”を見破るには、「そんなことができるのなら、どうしてこうしないのか」と考えてみることが大切だと言う。

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私の周りにもテレビのスピリチュアルブームに素朴に乗っかっている人達がいます。留学をする位なので、少なからず自ら考える力は有るはず、しかし何故かスピリチュアルな事を鵜呑みにしています。本人達がスピリチュアルブームをネタとして楽しんでいるなら、昔と特に変わりないので良いのですが、どうもネタで無い様な人も居ます。

スピリチュアルブームとは言っても、スピリチュアルの内容は90年代前半以前のそれと対して変わりは無い。では何故人々はスピリチュアルにはまるのか。安斎氏は、それは科学技術の発展により私達の回りにわからない物が溢れている、しかし私達はそれらを解らないまま受け入れ、使う事が当たり前になり、それがスピリチュアルブームの土台と成っていると主張している。

では、90年代前半以前の人々は自分達の周りに在った科学を本当に理解していたのだろうか?電子レンジの仕組みや、テレビの仕組みなど普通の人達は解っていなかったはずだ。

安斎氏の主張に似た現在のスピリチュアルブームに対する警告や主張は多いが、どれも実は的を得ていない。何故ならば、現代人に想像力や考える力が無くなっているから、ある種ネタでしかないはずのスピリチュアルにベタに反応してしまうと主張するが、では90年代前半以前の人々は想像力や考える力があったから、スピリチュアルのネタをネタとして受け入れられていたのか。

その様な事は無い。

現在のスピリチュアルブームはオウム事件の反動でしかない。

90年代前半以降オカルト、心霊、スピリチュアル系のテレビ番組は大きく縮小されて行く。その後10年程はこの手の番組が表立って放送される事は殆ど無くななる。そうオウム事件の後からだ。スピリチュアル的なものは危険な物として、自粛されていった。

そして、スピリチュアルをネタとして楽しむ文化が薄れていく。オウム事件の影がテレビから消えた頃、またスピリチュルをネタとした番組が始まった。しかし、ネタをネタとして楽しむ文化は10年の内に廃れていった為に、ネタが(ネタ以下のベタでさえ)マジに受け入れられて行く事になったのだ。


ネタはネタなので、そのうちネタ-マジがネタ-ネタもしくは、ネタ-ベタに成るとはず。

ちゃんちゃん。
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# by gsocio | 2008-11-22 17:51 | 社会系