このブロウは社会学かぶれの自分が、日々過ごす中で感じた事、読んだ物、多々ある中、適当に思った事をちょっと社会学的に見てみようか、程度のブログです。


by gsocio

自己のプライオリティーは窮地にこそ見える

f0192765_17473582.jpg宮台真司氏が昔中央大学での講演で、この様な事を言っていた。

友人や恋人であろうとも窮地に陥った時にどの様な行動を取るかを見るまではその人物が本当はどの様な人物であるかは解らない。日頃、愛他的な事を言っていても窮地に成れば真っ先に逃げる奴もいる。日頃思いやりがある事や、社会性がある様に見える事はそれはそれで一つの価値のあるものではあるが、相対的なものに過ぎない。窮地に陥った時になって初めてその人物のプライオリティーがはっきりと見えてくる、そして本当はどの様な人物なのかも。窮地に陥らないとその者が真っ先に逃げる奴かわ解らないので、窮地に陥るまではその人物をホールディング状態にしておく。また自分も窮地に立たされるまで自己のプライオリティーは解らないし、自分がどの様な人物であるかも解らない。そう言った温い状態で自己がどの様に考えていても、話半分に考えていた方が良いだろう。

私はどの様な人物なのだろうか?

いまだ皮一枚と言った窮地に陥った事が活動も場面も無い気がするので、解らない。確かに日頃自分がどの様な事を言っていても窮地に立たされた時に日頃の発言や振る舞いと同じ行動を取れる自身はない。しかし、だからと言って反対の行動を取ったり、プライオリティーが逆転したりとまでも考えずらい。早い話が、全くわからない。

窮地に立たされるまで自分がどの様な人物か解らないのであれば、自分を解るには自己を窮地に立たせる事こそが、自己を理解する上で最も有効な手段となるのだろうか?しかし、窮地に陥る状況を自分でわざと作ってしまっては本当の窮地にはなりえないかもしれない。で、あるならば、自分が窮地経たされるのを待つほか無い。ならば、自分が好きな事、信じる事をやり窮地に立たされるまで待つほか無い。たとえ窮地に立たされた時に自分がどの様な人物である可と言う事が自分の考える物とは違い、保身的で軽蔑しうる物であったとしても自分はそう言った人物であるのだから受け入れるほか無い。そこから成長するほか無いのかもしれない。

今は話半分に自己を理解し、したい事をするのが一番なのかも知れない。本当の自分はへたれならばそれもしょうがない。
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by gsocio | 2008-12-01 14:39 | 社会系