このブロウは社会学かぶれの自分が、日々過ごす中で感じた事、読んだ物、多々ある中、適当に思った事をちょっと社会学的に見てみようか、程度のブログです。


by gsocio

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f0192765_21163066.jpg今月もボストン日本人研究者交流会に参加してきました。

学期末の忙しい時期にもかかわらず、多くの方が参加されたいた。ボストンの日本人研究者の方々の知への探究心が旺盛なせいだろうか。と言っても交流会に来た事もない研究室に篭っている研究者の方も多くいるのだけれど。

この日、なぜか胃が痛かった。

今回の注目は、以下引用

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「音楽学とは何だろう? ~音・楽譜・演奏~」

沼野 雄司
Harvard University音楽学部 visiting scholar
桐朋学園大学

「音楽学」という学問があることをご存じですか?もちろん音楽に関する学問であることは、字づらを見れば誰にでも理解できるでしょうが、具体的にはどのようなことを研究するのか、イメージできる方は多くないでしょう(ハーバード大学に「音楽学専攻」があることをご存じの方も少ないのでは?)。そこで発表の前半ではまず、音楽学が対象とする広大な領域が、実は皆さんの研究分野のすぐ隣にあること、そして我々の生活のすぐそばにあることを伝えてみたいと思います。

そして発表の後半では、クラシック音楽の象徴といえる「楽譜」を取り上げて、様々な視点から考察を加えます。どのような経緯を経て、現在の五線譜に到達したのか、その特徴とは何か、そもそも楽譜とは一体何のためにあるのか、「音楽作品」とは楽譜のことなのか・・・。こうした基本的な問題について、いくつかの角度から光を当てるとともに、楽譜があるからこそ生まれる様々な解釈=演奏について、具体的な例を音で聴いていただきながら、一緒に考えてみたいと思います。

また、時間に余裕があれば、私なりの立場から、お子さんに音楽を学ばせる場合にとりわけ重要と思われる点について、いくつか述べておきたいと考えています。

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音楽学という今までバークリー音楽大学等にも知り合いが居るにも拘らず、あまり関わり合いがなかった学問という事もあり、大変興味深く発沼野氏の表を聞かせていただいた。沼野氏はクラシック音楽がバックグランドと言う事もあり、クラシック音楽を中心に音楽業界や、音楽史奥深さ等短い時間の中で大変興味深い発表をされた。

クラシック音楽業界の資金難は深刻なようで、このままでは日本のクラシック音楽は衰退してしまうのではないかとも思わせられた。会場の集客人数とオーケストラの演奏家人数を考えればどう見てもキツイしその上に会場の使用料等のもろもろが加われば採算はどう考えても取れない。採算を少しでも合わせる為にチケット代を高くするほか無く、そうすると興味ありお金がある人しか来ない。

もともとクラシック音楽はハイカルチャーであり、ロック等のローカルチャーと違い極一部の人々により愛され維持されて来ていた背景を考えるならば、日本に置いてパトロン抜きで維持する事は難しいだろう。パトロン的文化が無い日本においてパトロン抜きで成り立たないクラシック音楽で食べていく事は無理なのかもしれない。

市場原理から考えるならば利益が上がらないのであれば、要らない物として衰退していてもよいとなるかもしれないが、社会的価値から言えば利益が上がらなくても社会にとってよい物ならば維持していく必要がある。

クラシック音楽の中には偉大と言われる音楽家により何世代にもわたり愛され演奏され続けて来た曲がある。その価値は高い低いは関係なく絶対的と言ってもいいかも知れない。

流動性が高まる現代に置いて、ポップ音楽は条件さえ合えば取り替え可能な物の一つである。個人の心情や状況にシンクロする事によって愛されるからだ。しかし、クラック音楽にどの様な価値があるか私には解らないが、ポップ音楽と違い個人の心情や状況にシンクロさせる形ではない(歌詞無いので)形で人々に愛されるには何かがあるに違いないと思わせられる。

逆に言えばそう言った形だからこそ、長年にわたり同じ曲が演奏され続けてきたのかもしれない。

流動性が高まった社会に置いて、絶対的価値が存在する物こそが個人にとっても社会にとっても大事な物として認知される。なぜならば取り替え可能な物は取るに足らないくだらない物でしかなくなるからだ。

実は現代こそクラシック音楽が社会に価値のある物として認められるチャンスなのかもしれない。
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by gsocio | 2008-12-13 21:40 | ボストンでの交流
f0192765_17473582.jpg宮台真司氏が昔中央大学での講演で、この様な事を言っていた。

友人や恋人であろうとも窮地に陥った時にどの様な行動を取るかを見るまではその人物が本当はどの様な人物であるかは解らない。日頃、愛他的な事を言っていても窮地に成れば真っ先に逃げる奴もいる。日頃思いやりがある事や、社会性がある様に見える事はそれはそれで一つの価値のあるものではあるが、相対的なものに過ぎない。窮地に陥った時になって初めてその人物のプライオリティーがはっきりと見えてくる、そして本当はどの様な人物なのかも。窮地に陥らないとその者が真っ先に逃げる奴かわ解らないので、窮地に陥るまではその人物をホールディング状態にしておく。また自分も窮地に立たされるまで自己のプライオリティーは解らないし、自分がどの様な人物であるかも解らない。そう言った温い状態で自己がどの様に考えていても、話半分に考えていた方が良いだろう。

私はどの様な人物なのだろうか?

いまだ皮一枚と言った窮地に陥った事が活動も場面も無い気がするので、解らない。確かに日頃自分がどの様な事を言っていても窮地に立たされた時に日頃の発言や振る舞いと同じ行動を取れる自身はない。しかし、だからと言って反対の行動を取ったり、プライオリティーが逆転したりとまでも考えずらい。早い話が、全くわからない。

窮地に立たされるまで自分がどの様な人物か解らないのであれば、自分を解るには自己を窮地に立たせる事こそが、自己を理解する上で最も有効な手段となるのだろうか?しかし、窮地に陥る状況を自分でわざと作ってしまっては本当の窮地にはなりえないかもしれない。で、あるならば、自分が窮地経たされるのを待つほか無い。ならば、自分が好きな事、信じる事をやり窮地に立たされるまで待つほか無い。たとえ窮地に立たされた時に自分がどの様な人物である可と言う事が自分の考える物とは違い、保身的で軽蔑しうる物であったとしても自分はそう言った人物であるのだから受け入れるほか無い。そこから成長するほか無いのかもしれない。

今は話半分に自己を理解し、したい事をするのが一番なのかも知れない。本当の自分はへたれならばそれもしょうがない。
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by gsocio | 2008-12-01 14:39 | 社会系