このブロウは社会学かぶれの自分が、日々過ごす中で感じた事、読んだ物、多々ある中、適当に思った事をちょっと社会学的に見てみようか、程度のブログです。


by gsocio
f0192765_1825288.jpg先日ボストンで前参議院議員の 武見敬三先生の講演があったので参加させて頂いた。今回の主催はJaRANと言う何時も参加させていただいている、研究者交流会とはまた別の組織だ。しかし、メンバー的には重なっている部分も多い。色々な団体がそれぞれの特色を生かして、色々な講演を開催してくれ、それに参加できるのがボストンに居る最大のメリットかもしれない。

講演の内容は小泉内閣後の自民党内の政治ゲームの内容と、これからの民主党の政権奪取の予想など。内容的には、まあこんな物かなといった感じ。主催者側のお願いも、「わかり易く今の政治状況などを話してください」と言う事だったので、致し方ないだろ。内容的に私の見識と先生の見識にずれが有ったものの、先生の政治家としてのスタンスなどは共感が持てた。

武見先生は講演内で衆議院選挙後の政局の大連立構想の展望等も御話になったが、個人的には永田町の政治ゲームには興味はない。所詮は左派政党同士の権力争いでしかない、だからこそ二大政党制等と語っておきながら、大連立なんて話も同時に出てくる。個人的に興味があるの衆議院選挙後の国民、特に若者の反応だ。

ここからが本題。

先の参議院選挙の頃からだろうか、若者の間で「選挙に行かない奴は、政治を語る資格はない」と言う様な論調の意見が目立ってきた。この考え自体は幼稚な考え方であって、選挙に行かなくても政治を語る資格はある、選挙だけが国民の政治参加権ではない。第一、選挙に行って政治活動をしている人間が、「選挙に行っても、政治活動をしていない奴が政治を語るな」と言ってしまったら先の意見は元も子もな無くなってしまう。「リアル」によって「資格」を得ると言う考えは幼稚だ。

しかし、この様な若者の考えが目立ってきた原因は、彼らが置かれている世の中の変わらなさや、社会の閉塞感に対してのフラストレーションが溜まっている表れではないだろうか。けっして優越感ゲームをしているわけではないだろう。事実、先の参議院選挙に置いて自民だけではなく、社民、共産の票が民主に流れた背景には、とにかく政局を変えないといけないと言う思いが価値観は違えど自民党でない唯一の対抗勢力と成り得る民主党に流れたからであって、けっして先の参議院選挙が民主党の政策が評価された結果でない事は民主党自身が承知している所だろう。

しかしながら、若者の「選挙に行かない奴は、政治を語る資格はない」と言った感覚は、先の選挙結果のそれ以上の物があると私は考える。その自身が抱える政治参加への多様性の無さによる危うさが、変革に加担しないものに対して敵意にも似た言論封殺的な発言に現れている。勿論、マスコミによる投票率の低さへ対する問題定義とそれが変革を遅らせていると言う意識が元に成っている事がその背景にあるが、もし選挙で大連立でも、民主党単独政権でも良いが、何か今の閉塞感が変わる事への期待に答える事が出来なかった時に、若者のフラストレーションと絶望感は何所に向かうのだろうか?
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by gsocio | 2009-04-14 18:32 | 社会系
f0192765_16233795.jpg今月も交流会に参加させてもらった。

今回の交流会は参加者が非常に多く驚かされた。今回のテーマが開発系と妊娠という全く別の分野ながら、研究者だけではなく一般の方にも興味を持たれるテーマであった事が理由だろうか。

今回の発表の私の中での注目は後半の発表「妊婦を取り巻く臨床心理のかかわり」だ。男性の自分にとっては余り考える機会さえない事柄なので、この様な場で理解が深められることは有難い。

:以下引用

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「妊婦を取り巻く臨床心理のかかわり」(産婦人科医、臨床心理士の合同発表)

岸本早苗
Research Manager, Institute for Professionalism & Ethical Practice, Children’s Hospital Boston
ハーバード公衆衛生大学院(2008年卒) 臨床心理士

吉田穂波
ハーバード公衆衛生大学院
元ウィンズ・ウェルネス銀座クリック 産婦人科医

産婦人科、出産にまつわる皆さんのイメージはどのようなものでしょう?「お産は病気ではないのだから」といわれますが、妊娠、出産は様々な変化やリスクと隣あわせです。

産婦人科医の役割として、異常経過を予知し、対処をし、胎児に異常がなければ、これまで母体の精神面心理面は見逃されがちでした。心理面での不安をくみとる医師向けのトレーニングはなく、現場ではなかなかそこまで対応できないのが現状です。産科で働く心理士は、産科と精神科のリエゾンのような役割を担い、妊娠から出産後にいたるまで、患者の心理面の支援をしています。

今回の発表では、妊娠に伴っておこる体と心の変化やその対応、医師や心理士がどのようにチームで働いているのか等について、事例も用いながらお伝えし、皆さんと議論できればと思います。男性の皆さんにもぜひきていただき、女性への理解を深めていただければと思います。

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今回の発表で産婦人科に置いても心理士が必要に成って来た事がよくわかった。一昔前なら何らかの形で現在心理士が行っている妊婦の精神的なサポートを行える社会が存在していたのだろうが(もしくは日本的な女性に不の面を押し付けていただけかも知れないが)、社会の変化に伴い妊婦の精神面をサポートする存在がなくなってしまったのだと。

70年代の郊外化が進んだ時代でも妊婦は実家に帰って出産していたので、精神面のケアは実家の村社会的な物によって成されていたと想像するが、今はどうなのだろう?そう言ったものが無くなってしまった為に心理士必要に成ったのだと思うのだけれども。

現在の問題は社会が変わってしまったのにシステムがそれに追いついていないことだろう。もちろんシステムは往々にして社会変化を追う形に成るので仕方ないのかも知れないが。

ここで、この様な妊娠の議論のもう一つの問題は男性の参加が余り話されていない点だ。もちろん、男性は妊娠もしないし、今まで女性の妊娠に置けるサポートを担う必要性は経済面と医学の面に置いて以外は殆どなかったからだろうが、社会変化に伴い女性の妊娠に対して参加する事も求められる事になるだろう。この問題はマスの問題ではなく個の問題として捉える事が必要だろう。マスにも出来るがそれは効率的ではない。なぜならば一対一と言う濃密な関係が築ける環境においてマス的論理を用いる事は個々のきめ細かいサポートを無視する事に成りかねない。心理士の場合は受け持ちの患者が多いので一対一とは見ないので、マス的見方が必要だ。

その様な考えの下「男性が奥さんの妊娠中に株を上げるにはどうすれば良いか?」と言う質問をさせて頂いた。この質問の意味はいかに男性の参加を促すかにある。口でいくら参加を唱えても経験する事のけっしてない男性にとって妊娠は他人事でしかないし、それ以上になりえない。しかし、その事柄を元に自己の利益に繋がる可能性があるのであれば男性参加の理解も深まるはずだ。わかり易く言えば、男は女性の事は理解しようとはしないが、女性にモテる為に女性を理解しようとはする。

妊娠に係わる心理士の置かれている状況でも気になった事がある。それは心理士に掛かる事に抵抗がある女性が多い事だ。もちろん今の日本社会の精神障害者等に対する状況を考えると解らなくもない。しかし、知っておく事や、理解を深める事によって助かる事は多い。その前に心理士掛かる事それ事態は大した事では内規が私はするが。

この産婦人科における臨床心理士の状況が「性犯罪被害にあうということ」という本の内容と似ているなと思わされた。性犯罪被害者になった場合に、すぐに対処すれば防げたかもしれない後の色々な事柄もシステムは整っているにも係わらず、性犯罪被害者に対する日常の自己の偏見の目と情報不足から、対処が遅れる事は多い。例を出すならばレイプされた後に警察にすぐに行けばちゃんとした対応と医療的な対応もしてくれる、それにより望まぬ妊娠も防げる。勿論精神的ケアまでは対処できる事はないが警察に行った事により助かる面は大きい。しかい、現実はかなり遅れて被害届を出す被害者が多い、また著者のケースでもある様にその事柄自体を恥だと思う周囲(著者の場合は母親)の圧力によって被害者は全てを抱え込む事を強いられる。勿論、妊娠と性犯罪被害を同等に捉える事は出来ないが、比較できる要素は多い。

事前にある程度の知識と理解が本人と周囲にあれば的確に対処できる事柄は多い。これは妊娠に係わる臨床心理士だけの問題だけではなく、妊娠を取り巻く社会的変化全体にも言える事だろう。臨床心理士の社会的認知度をマスの視点から高めていく必要があるだ。

妊娠を取り巻く環境が個の面に置いても、マスの面に置いてももう一度見直す必要性が求められているのだと意識させられた今回の交流会だった。
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by gsocio | 2009-04-05 08:20 | ボストンでの交流
f0192765_17362432.jpg今回の発表については書くか書くまいか迷ったが、一応書くことにした。理由は読み返す機会があるかも知れない事だろうか。後にこの時期に自分が何を考えていたか、わかる事は重要だろう。

今回の発表の注目は山本教授の発表

:以下引用

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「東アジアにおける科学技術活動のもつ安全保障上の意味」

山本 武彦
Research Fellow, Belfer Center for Science and International Affairs at the John F. Kennedy School of Government, Harvard University
早稲田大学政治経済学術院教授

―日米関係の枠組みのなかで―
 科学技術の発展は、一面で持続的経済成長を促す要因となり、他面で国家の安全保障や国際安全保障のあり方に重要な変化を及ぼす要因となってきた。言い換えれば、日進月歩の勢いで進む科学技術活動は、人間生活の進歩にとって欠かす事の出来ない成果を生み出すと同時に、大量破壊兵器や高度通常兵器の技術革新を促すという二面性を常に纏う。こうした二面性を前提にして国々の政策決定者は、科学技術が宿命として抱える国家安全保障と国際安全保障の契機を意識しながら自国の科学技術政策の策定に勤しむ。

 どの国家も自国の与件を前提にして安全保障政策を策定するが、自国の生存に関る地戦略を次のような公式にしたがって描き出し、そしてそれぞれの国情に応じて自国の地戦略的利益を追求してきた。

 地戦略(geo-strategy)=地政学(geo-politics)+地経学(geo-economics)

問題は、このような公式に科学技術活動がどのような影響を及ぼすかである。結論を先取りしていえば、科学技術活動は地政学と地経学を接続する媒介変数としての意味をもち、政府は自国の国益のためにこれを「囲い込む」誘惑に駆られる。すなわち、地技学(geo-science and technology)的な意味づけを与えてしまう。 わけても軍事科学や軍事技術の最先端分野の研究は、自国の地政学的利益を確保するためにその内容は秘匿対象とされる。しかも、これらの科学技術活動のほとんどは民生目的をも共時的に追求する。いわば、軍事・民生両用の科学技術活動として展開される。最先端の研究であればあるほど、それらは国家安全保障上の目的と国際競争力維持の目的から研究内容は秘匿対象となる。

 このような問題意識から、アメリカが1980年代以降、現在に至るまでに一貫して追求してきた地技学アプローチが、日米関係の枠組みのなかでどのように作動し、時には対立の局面を彩り、ときには協調の力学を生み出してきたか、その赤裸々な実相を描き出す。

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今回の山本教授の発表をわかり易く言うと、「軍事転用可能な科学技術を自国の安全保障の為に独自に囲い込むか」。

歴史的に軍事からの科学技術の転用によって民間の技術は発展して来た。しかし戦後日本は軍事開発が制限される中で民間がしたからの技術開発を進めてきた。だが、その民間の技術も当初の意図とは違う方向の軍事転用可能な物となってしまった。個人的な考えでは善にしか使えない技術なる物が存在すること事態に疑問がある。使う人によって悪にも善にもなる物が技術だと思うのだが。ここでの問題は大規模なテロ等の軍事転用が問題と言う事なのだろう。

日本の技術が海外を経由して北朝鮮のミサイル開発に使われている事も、科学技術の安全保障上の意味がないがしろにされた結果かもしれない。

しかしながら、教授も講演内で指摘していたがあ、日本の安全保障はなぜかアメリカの言いなりに成っている事が多い。もちろん日米同盟などの関連性もあるのだろうが、それでも不思議な程の言いなりであると。

今回の山本教授の講演で最も疑問に思った事はここであった。

日本の技術的な安全保障がアメリカの言いなりである事を無視して、自国の軍事転用可能な科学技術をいかに自国の安全保障の面に置いて囲い込むか等と議論しても全く意味が無い。

もちろん、日本とアメリカの二カ国の安全保障を一つと考え、アメリカの下に日本が付き安全保障を考える前提があれば話は別であるが、それならば日本の軍備、科学技術の安全保障がアメリカの言いなりに成っている事を問題にする事はおかしい。

この議論に欠けている事は国家の成り立ちと、国際関係の根本的な考えだと私は思った。

マックス・ウェーバーの肩に乗ると、国家はその地域に置いて暴力を独占した者が作ったに過ぎない物である。ここで言う国家とはフィジカルである。何となく国家、国民形成論が蔓延している中ではこの問題は忘れ去られがちである。もちろん、国境と領土による国家の脱人格化等があるのでウェーバーの国家論は少し修正して応用する必要はあるだろうが、根本にある国家=暴力の独占と言う考えは間違っていない。

この考えは国際関係にも反映される。国際関係に置いて全ての国々を統治する組織は存在していない。その様な中では強制力のある法なる物も存在し得ない。あるとすれば個々の国同士の制裁等による強制力のみである。その様な中で、自国の安全や優位性を担保する最後で最も有効な武器は軍事である。それも絶対的な優位性がある事が重要である。無論その優位性を持ち得なかった国は持ちえる国の傘下入る事はなんらおかしな事ではない。弱い部族がより強い部族の傘下に入る事は弱い部族にも自分達の生存が危ぶまれる物ではないのであれば一定のメリットと成り得る。ここにおいてこの二つの部族は一つの国家らしき物へと変化する。冷戦時を例にとって見るとわかりやすい。二つの強大な暴力を持った部族が多くの周辺部族を自部族の参加に従えてにらみ合っていた。

しかし、傘下にある部族はけっして支配する部族の脅威となりえる暴力を持つ事は許されない。何故ならば、それは国家に置いて国民または何らかの集団が国家の存在を脅かす存在を容認しない事と同義である。

それらを踏まえて今回の山本教授の講演の「軍事転用可能な科学技術を自国の安全保障の為に独自に囲い込むか」と言う問い自体がどれ程の意味があるのかが私にはわからない。何故ならば囲い込んだ先が全く議論されていないし、前提にある日本とアメリカの関係に対する根本的な認識もずれている。

もしかしたら山本教授の立場上言えない事もあったのかも知れない。そのために山本教授ほどの教養の有る方の講演の内容がこの様な形に成ってしまったのかも、とも思う。



今回の交流会では質問時に過激な発言をしてしまった事を御詫び。



過激な質問をしたが本当のメインのポイントの質問は、何故日本はアメリカの言いなりにこうも成っているのか?本当は言う事を聞かないと行けないと思い込んでいるだけではないだろうか?と言う事だったのだが、そこに到達する前にタイムオーバーで終わってしまった事に後悔。



後の懇親会で講演時に一部失笑をかった私の過激な発言に対して擁護してくれた方が居たのは、嬉しかったが、それで良しと思ってもいけないと思った。
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by gsocio | 2009-03-21 08:45 | ボストンでの交流
f0192765_21163066.jpg今月もボストン日本人研究者交流会に参加してきました。

学期末の忙しい時期にもかかわらず、多くの方が参加されたいた。ボストンの日本人研究者の方々の知への探究心が旺盛なせいだろうか。と言っても交流会に来た事もない研究室に篭っている研究者の方も多くいるのだけれど。

この日、なぜか胃が痛かった。

今回の注目は、以下引用

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「音楽学とは何だろう? ~音・楽譜・演奏~」

沼野 雄司
Harvard University音楽学部 visiting scholar
桐朋学園大学

「音楽学」という学問があることをご存じですか?もちろん音楽に関する学問であることは、字づらを見れば誰にでも理解できるでしょうが、具体的にはどのようなことを研究するのか、イメージできる方は多くないでしょう(ハーバード大学に「音楽学専攻」があることをご存じの方も少ないのでは?)。そこで発表の前半ではまず、音楽学が対象とする広大な領域が、実は皆さんの研究分野のすぐ隣にあること、そして我々の生活のすぐそばにあることを伝えてみたいと思います。

そして発表の後半では、クラシック音楽の象徴といえる「楽譜」を取り上げて、様々な視点から考察を加えます。どのような経緯を経て、現在の五線譜に到達したのか、その特徴とは何か、そもそも楽譜とは一体何のためにあるのか、「音楽作品」とは楽譜のことなのか・・・。こうした基本的な問題について、いくつかの角度から光を当てるとともに、楽譜があるからこそ生まれる様々な解釈=演奏について、具体的な例を音で聴いていただきながら、一緒に考えてみたいと思います。

また、時間に余裕があれば、私なりの立場から、お子さんに音楽を学ばせる場合にとりわけ重要と思われる点について、いくつか述べておきたいと考えています。

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音楽学という今までバークリー音楽大学等にも知り合いが居るにも拘らず、あまり関わり合いがなかった学問という事もあり、大変興味深く発沼野氏の表を聞かせていただいた。沼野氏はクラシック音楽がバックグランドと言う事もあり、クラシック音楽を中心に音楽業界や、音楽史奥深さ等短い時間の中で大変興味深い発表をされた。

クラシック音楽業界の資金難は深刻なようで、このままでは日本のクラシック音楽は衰退してしまうのではないかとも思わせられた。会場の集客人数とオーケストラの演奏家人数を考えればどう見てもキツイしその上に会場の使用料等のもろもろが加われば採算はどう考えても取れない。採算を少しでも合わせる為にチケット代を高くするほか無く、そうすると興味ありお金がある人しか来ない。

もともとクラシック音楽はハイカルチャーであり、ロック等のローカルチャーと違い極一部の人々により愛され維持されて来ていた背景を考えるならば、日本に置いてパトロン抜きで維持する事は難しいだろう。パトロン的文化が無い日本においてパトロン抜きで成り立たないクラシック音楽で食べていく事は無理なのかもしれない。

市場原理から考えるならば利益が上がらないのであれば、要らない物として衰退していてもよいとなるかもしれないが、社会的価値から言えば利益が上がらなくても社会にとってよい物ならば維持していく必要がある。

クラシック音楽の中には偉大と言われる音楽家により何世代にもわたり愛され演奏され続けて来た曲がある。その価値は高い低いは関係なく絶対的と言ってもいいかも知れない。

流動性が高まる現代に置いて、ポップ音楽は条件さえ合えば取り替え可能な物の一つである。個人の心情や状況にシンクロする事によって愛されるからだ。しかし、クラック音楽にどの様な価値があるか私には解らないが、ポップ音楽と違い個人の心情や状況にシンクロさせる形ではない(歌詞無いので)形で人々に愛されるには何かがあるに違いないと思わせられる。

逆に言えばそう言った形だからこそ、長年にわたり同じ曲が演奏され続けてきたのかもしれない。

流動性が高まった社会に置いて、絶対的価値が存在する物こそが個人にとっても社会にとっても大事な物として認知される。なぜならば取り替え可能な物は取るに足らないくだらない物でしかなくなるからだ。

実は現代こそクラシック音楽が社会に価値のある物として認められるチャンスなのかもしれない。
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by gsocio | 2008-12-13 21:40 | ボストンでの交流

アメフト@ハーバード

f0192765_1475248.jpgハーバードのアメフト部に所属している友達の対コロンビア戦の試合があり、チケットを手配してくれたので、応援に行ってきました。試合前に他の大学から応援に来た友達と合流し、ちょっと経済とか投資とか(内定先の理由からか)話しながらピザをつまむ。

ピザはやはりピノキオ。私の親戚が25年程前に大学生だった頃からハーバードの路地裏に在る小さなピザ屋。長年学生達に愛されている理由はやはり、その味の良さだろう。ハーバード・スクウェアーには沢山のピザ屋がある中で、ここのピザは格段に美味しく感じる。そんなピザを食べ試合を見に向かった。

試合はハーバードの大勝。今シーズン一試合しか負けていないハーバード対、今シーズン一試合しか勝っていないコロンビアでは当然と言えば当然の結果でした。

しかし、肝心の友達は試合において出番は無く。彼の背番号のみを確認して終ってしまった。今度は頑張って試合に出て欲しい。

そうでないと、応援にならない。w
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by gsocio | 2008-11-08 14:05 | ボストンの学生生活
f0192765_1732513.jpg今月もボストン日本人研究者交流会に参加してきました。

今回も大変勉強になる交流会でした。
毎月こうの様な交流化を主催してくださる主催者の方や、発表者の方々には頭が下がります。

今回の注目は菅谷明子氏の知的協創を促すためのコミュニケーションデザイン

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菅谷明子
ジャーナリスト
東京大学大学院情報学環博士課程

ネットワーキングに格好なイベントに参加したものの、なかなか見知らぬ人と話すきっかけがつかめず、結局、知り合いと話すだけで終わってしまった、という経験はありませんか?同じ学部や部署に長い間在籍していたのに、偶然出会って話すまで、お互いに共通点が多いことを知らず、「もっと早く知り合っていれば」と思ったことは?

最近は、Facebookなどのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)に代表されるように、空間を飛び越えて人と人がつながる仕組み作りが急速に広がっていますが、その一方で、同じ物理的空間にいる人たちが、対面してコミュニケーションを交わし、交流を深めるための仕組作りは、意外と試みられていないという現状があります。

そこで、この講演では、人と人とをつなぎコミュニケーションを触発する、空間デザイン、アクティビティのデザイン、ディジタル・メディアなどの事例をご紹介し、知的協創を促すためのコミュニケーション・デザイン戦略について考えてみたいと思います。
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菅谷氏の考える空間デザインによって個々人の行動や思考を変え、知的協創を促すアイディアはなかなか興味深く聞かせていただいた。

空間デザインによる知的協創とは、個々の思考や行動は基本的に本人ないしは、本人に近い人間しか知る事はない(行動に置いては本人も知り得ていない事もある)。しかし、空間を新たにデザインする事によって閉じ込められていた個々のアイディアや、個々の行動領域を変える事により新たな交流を促し知的協創を促す事である。

菅谷氏はHGSDやMITのDスクールの校舎を例に挙げて説明された。これ等のスクールでは生徒の作業場の敷居をできるだけ無くす事や作業場を見渡せる空間等を作ることにより、個々の生徒のプロジェクトが他生徒からも分かるだけではなく、今まで交流が無かった生徒同士が他生徒のプロジェクトに興味を持つ事により交流が生まれ知的協創も生まれる用になっている。

また、この様な大規模な空間デザインだけではなく、例えばオフィスに散らばっているコーヒーメーカーを一つにまとめ、バラバラだった個々の行動の流れをまとめ上げ一つの共有空間に流れるインセンティブ(この場合はコーヒー)を与える事により交流を深める。また、この共有空間に進行している個々のプロジェクト等を簡単にまとめて説明した物等を置けば、よい交流し易くなるだろう。

空間デザインとは別に、オフィスの全員に端末センサーを持たせ、他者との交流行動比率を割り出し個々の交流の内容を把握し、交流の偏りを無くす取り組みなどもあるようだ。自分では自分の交流範囲は広いと思いがちだったりするが、このシステムを使うと自分の交流の内容が数値化されて出るので、意外と知らなかった自分の交流の偏りが解ったりする。交流の偏りが数値化されて解る事により、以降自身の交流を意識的により広い物にしようとする動機が生まれる。この方法はそれなりの結果が数値化して見れるのがメリットかもしれない。

アクティビティー等のデザインでは、今回の交流会の中でも休憩時間を使って行われた。胸に貼ったり首から下げ名前や所属の書いてあるだけのネームプレート等はよくある。しかし、菅谷氏の作ったネームプレートは名前や所属の他に子供の時に成りたかったものや、落ち込んだ時にする事など個人のアイデンティティーを表す事もネームプレートに書く事だ。この他にも、内容を文字ではなく絵等にビジュアルかする等、このネームプレートの内容を場のメンバー構成によって変える事により、より効果的なものになる。このネームプレートに個々のアイデンティティーを知り合う前から表す事により、事前にアイデンティティーの共有や相手イメージがある程度解る。それにより、最初の一歩目の交流がより容易になる。

今回の交流会で使われたネームプレートでは、上記の内容の他に分野ごとに大まかな色分けがあり、参加者は自分の色のテーブルで休憩をし交流を深める試みがなされた。これは参加者のアンケート結果によるもので、参加者の多くは分野の違う方と交流も積極的に行いたいと言う思いがある。しかしあまりにも分野が違いすぎるよりは多少は研究などが解ったほうが交流もスムーズに行くであろうという配慮から、今回のグループ分けがなされた。この他にも、グループ内でのアクティビティーや参加者の配置移動を促すインセンティブ等を加えればより参加者の交流が深まり、知的協創が促される事も可能だろう。

この様なコミュニケーションデザインに少しの工夫で、知的協創を促せると言うアイディアは大変新鮮な物であった。今回の菅谷氏の発表を応用すれば色々な場所や状況に応じて、知的協創を促す事が可能な気がする。

しかしながら、知的協創も問題がある。それは企業などにおいて知的協創がどれほど業績に影響してしてくるかだ。交流会内でもこの事に対しての質問が出た。菅谷氏の答えは企業によって何が業績かが違ってくるので一眼には言えないと言う答えだった(そう記憶している)。確かに、知的協創の成果は数値化するのは難しい。企業の業績が上がったのが知的協創のおかげなのか、他の影響なのかは簡単には解らない。しかし、コミュニケーションデザインで知的協創を促すと言う事は、知的協創が社会に取って有用な事だと言う前提があるからこそである。であるならば、知的協創を促がすだけではなく、企業に置ける知的協創の業績との関連性や有用性等や、社会に置いて知的協創もたらす恩恵等も同時に示す必要があるはずだ。
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by gsocio | 2008-10-19 13:07 | ボストンでの交流
f0192765_759937.jpg先週末にボストン日本人研究者交流会に参加してきました。

今回の発表で興味深かったのは第二部の、

「リーダーの条件と育成 ~ボストンでの経験から考える~」

柳沢 幸雄
東京大学大学院新領域創成科学研究科 教授
元ハーバード大学公衆衛生大学院環境健康学科 併任教授


日本とアメリカの最も歴史のある大学であるハーバード大学と東京大学での研究、教育経験をもとに、OfficerとStaffをキーワードにして、日本とアメリカの大学システムを比較する。研究の企画と実施、教育企画と実施のプロセスから、意思決定におけるOfficerとStaffの役割、処遇を紹介する。

大学での経験をもとに、OfficerとStaffの役割の違いを明示し、意識するアメリカ社会と、名ばかり管理職が横行することからも明らかなように、管理職と非管理職の間に明確な意識の差がない日本社会との間に存在する意思決定プロセスの違いを考察する。意思決定プロセスにおける実質的決定者はだれか、その権限と責任、責任への対価として給与を通じて、リーダーの条件とリーダーを育成法について考える。

でした。


柳沢教授の提示する大学研究に置けるリーダーシップと責任の明確性の議論は大変興味深い物であった。しかしながら研究をするにあたり研究への出資を大学外からに頼る事は理系ならまだしも文系の研究では中々難しい物がある気がする。勿論文系の研究の中でも社会的に認知され、出資されるような研究は沢山あると思うが、社会的に認知されず研究資金が集まらない研究もあるに違いない。その様な研究に対してどの様な対処が必要なのだろう。勿論、研究をする者が自己の研究資金を集めるにあたって出資者を募り出資をして貰う様に働きかける重要性も理解できる。研究者の努力によってまかなえる部分もあるであろう。しかしながら、その様なシステムでは研究者が知識人かつ社会的リーダーとして存在する事は難しくなる様に思えて成らない。

エドワード・W・サイードは自己の著書「Representations of the Intellectual」の中で知識人の定義として、社会的力=政府等からの肩書きや名誉有る賞等の上からの、取り込みが行われた時に人は知識人に成るとされている。また知識人は虐げられ、忘れ去られ、声を上げられない者達の声を代弁する役割があるともしている(しかし決して忠誠を誓っては成らないとも)。その観点から考えるならば、研究者が自己の研究に対して出資を募る際に代弁者としての研究は大変難しくなるだろう。また、政府からの肩書きや名誉有る賞等を持っていると当然外からの出資は見込みやすくなる。そうすると研究者は政府からの与えられる肩書き欲しさに政府よりの見解をせざる得なくなる。また、名誉有る賞も同様で、賞を取るための研究や発表に方向性がどうしても行ってします。

これは仕方のない事で、研究費がなければ研究者は研究が出来ないのだから。その様な環境で知識人としてリーダーは大変厳しい立場に立たされていると思う。この事に付いて柳沢教授に質問してみたが、納得が行く答えは得られなかった。勿論自分の質問も解りづらかった事も有るのだけれど、この問題に簡単な答えは元々ないからだ。

研究者が自己の研究に対して賛同者や出資者を集める好意は大事だ、しかし賛同者や出資者ばかり見ていては問題だ。同様に、賛同者や出資者が研究の説く特性上、中々現れない研究でも大事な研究もあるだろう、しかしだからと言って外に目を向けずに研究に没頭すれば良いかといえばそうではないはずだ。

柳沢教授にもう少し御話を伺いたかったけれど、後に予定が詰まっていたので、発表後直ぐに会場を後にしなければ行けなかった事に少し後悔。
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by gsocio | 2008-10-01 16:38 | ボストンでの交流