このブロウは社会学かぶれの自分が、日々過ごす中で感じた事、読んだ物、多々ある中、適当に思った事をちょっと社会学的に見てみようか、程度のブログです。


by gsocio
f0192765_2317458.jpgちょっと前にニュースになっていたが、出会いサイト規制法に異性間の性的行為しか想定に入れていない事が問題にされていた。この事自体からこの法律の買収に対する認識の浅さが伺える。

元々売春は男性が買い女性が売る物とはなっていなく、ギリシャ時代から男娼は存在していたし、同性愛専門の男娼も存在していた。売春とは金銭的力関係の上に成り立つものであり、男女の力関係は問題ではない。歴史的な金銭的力関係から男性が女性を買うのが支流に成っているだけである。

現に一昔前に流行った買春旅行に置いて今一番の成長を見せているのは先進国の女性の買春旅行である。これは女性が金銭的力を得た事により金銭的力の劣る男性を買っている形であり。力の関係は男性の買春となんら変わりは無い。

この売春の根本的な力関係を認識していれば同生間での売春は想定してい事はありえない。しかし、想定していなかったところを見ると売春行為が少女のみで行われている行為ではなく少年から女性に対しての売春行為も想定には入ってはいないだろう。勿論、法的な強制力はある物の取り締まりは行われているかは、かなり疑問だ。

この、ニュースのもう一つの心配な点は、この報道により更にこの様な売春行為を行う少年達が現れないかと言う点だ。

売春をする少年の中には家庭内で暴力の問題を抱え家出をしている者も居る。それがサポにプラスして宿を求める理由にもなっている。勿論、少女の場合も同様だが、少女の売春の容易さは周知の事実なので、実質的これ以上の急激な増加は見込まれない。しかし、少年の場合は今回のニュースに見るようにその特異性が注目を集める要因となりえた。

この動きは90年代のブルセラ、デートクラブから形成される援助交際ブームに近いものがある。元々、女子高生の売春行為はごく一部歩女子高生が裏で行っていた物だったのが(Q2やテレクラではその前から存在はしていた)テレビでセンセーショナルに取り上げられた事により、一般の女子高生達が大挙してデートクラブ等に押し寄せた経緯がある。

それまで、デートクラブでは売春行為を行う女子高生は殆ど居なく、如何にやらせずに儲けるかが重要だった。これは上客の男性をデートクラブ内の女子高生で回していた事が背景にある。もしウリを行うと男性客が一人の子に固定化していまい他の女の子たちは客を失う、また他の男性客もウリをする女の子に集中してしまうので、ウリをしない女の子達はさらに男性客を失っていく。

こうした背景からウリをする女の子はデートクラブ内のグループ完全にはぶかれてしまい、そのデートクラブに居られなく成ってしまうと言った状況があったが。それがゆえに、ウリをしないで稼ぐ事が求められたのだが、テレビでごく一部のウリをするデートクラブの女子高生の情報が流れたために、今までその様な稼ぎ方を知らなかった多くの女子高生がウリを目的としてデートクラブに押し寄せた。それにより、ウリをしない元々居た女の子達はデートクラブには居られなくなり、デートクラブその物の様相も様変わりしてしまった経緯がある。

この例と同様にメディアの報道により新たな稼ぎ方を知ってしまった少年達は当時の女子高生とはまた違った意味での場所代を稼ぐために急激な増加も想定しておくべきだろう。しかしながら、規制をかければ意と言う問題ではない。

規制をかければ動機は解消されることは無いので問題はアンダーグラウンド化してしまい、状況把握が困難に成ってしまう。把握できたとしても極一部の人間だけだ。その一部の人間が下すこの問題のアンダーグラウンド後の裁定をいったい誰が評価できるだろう。

目に見えない所にある事は消えてしまった訳ではなく見えないだけだ。問題はそこにあり続ける。また解消できない問題であるならば如何にその問題と付き合っていくかと言う事が重要に成ってくる。どちらにしても過剰に目に見えるものだけに反応して対応していては問題はアンダーグラウンド化してしまうだけだ。
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by gsocio | 2009-05-24 23:19 | 社会系
f0192765_17362432.jpg今回の発表については書くか書くまいか迷ったが、一応書くことにした。理由は読み返す機会があるかも知れない事だろうか。後にこの時期に自分が何を考えていたか、わかる事は重要だろう。

今回の発表の注目は山本教授の発表

:以下引用

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「東アジアにおける科学技術活動のもつ安全保障上の意味」

山本 武彦
Research Fellow, Belfer Center for Science and International Affairs at the John F. Kennedy School of Government, Harvard University
早稲田大学政治経済学術院教授

―日米関係の枠組みのなかで―
 科学技術の発展は、一面で持続的経済成長を促す要因となり、他面で国家の安全保障や国際安全保障のあり方に重要な変化を及ぼす要因となってきた。言い換えれば、日進月歩の勢いで進む科学技術活動は、人間生活の進歩にとって欠かす事の出来ない成果を生み出すと同時に、大量破壊兵器や高度通常兵器の技術革新を促すという二面性を常に纏う。こうした二面性を前提にして国々の政策決定者は、科学技術が宿命として抱える国家安全保障と国際安全保障の契機を意識しながら自国の科学技術政策の策定に勤しむ。

 どの国家も自国の与件を前提にして安全保障政策を策定するが、自国の生存に関る地戦略を次のような公式にしたがって描き出し、そしてそれぞれの国情に応じて自国の地戦略的利益を追求してきた。

 地戦略(geo-strategy)=地政学(geo-politics)+地経学(geo-economics)

問題は、このような公式に科学技術活動がどのような影響を及ぼすかである。結論を先取りしていえば、科学技術活動は地政学と地経学を接続する媒介変数としての意味をもち、政府は自国の国益のためにこれを「囲い込む」誘惑に駆られる。すなわち、地技学(geo-science and technology)的な意味づけを与えてしまう。 わけても軍事科学や軍事技術の最先端分野の研究は、自国の地政学的利益を確保するためにその内容は秘匿対象とされる。しかも、これらの科学技術活動のほとんどは民生目的をも共時的に追求する。いわば、軍事・民生両用の科学技術活動として展開される。最先端の研究であればあるほど、それらは国家安全保障上の目的と国際競争力維持の目的から研究内容は秘匿対象となる。

 このような問題意識から、アメリカが1980年代以降、現在に至るまでに一貫して追求してきた地技学アプローチが、日米関係の枠組みのなかでどのように作動し、時には対立の局面を彩り、ときには協調の力学を生み出してきたか、その赤裸々な実相を描き出す。

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今回の山本教授の発表をわかり易く言うと、「軍事転用可能な科学技術を自国の安全保障の為に独自に囲い込むか」。

歴史的に軍事からの科学技術の転用によって民間の技術は発展して来た。しかし戦後日本は軍事開発が制限される中で民間がしたからの技術開発を進めてきた。だが、その民間の技術も当初の意図とは違う方向の軍事転用可能な物となってしまった。個人的な考えでは善にしか使えない技術なる物が存在すること事態に疑問がある。使う人によって悪にも善にもなる物が技術だと思うのだが。ここでの問題は大規模なテロ等の軍事転用が問題と言う事なのだろう。

日本の技術が海外を経由して北朝鮮のミサイル開発に使われている事も、科学技術の安全保障上の意味がないがしろにされた結果かもしれない。

しかしながら、教授も講演内で指摘していたがあ、日本の安全保障はなぜかアメリカの言いなりに成っている事が多い。もちろん日米同盟などの関連性もあるのだろうが、それでも不思議な程の言いなりであると。

今回の山本教授の講演で最も疑問に思った事はここであった。

日本の技術的な安全保障がアメリカの言いなりである事を無視して、自国の軍事転用可能な科学技術をいかに自国の安全保障の面に置いて囲い込むか等と議論しても全く意味が無い。

もちろん、日本とアメリカの二カ国の安全保障を一つと考え、アメリカの下に日本が付き安全保障を考える前提があれば話は別であるが、それならば日本の軍備、科学技術の安全保障がアメリカの言いなりに成っている事を問題にする事はおかしい。

この議論に欠けている事は国家の成り立ちと、国際関係の根本的な考えだと私は思った。

マックス・ウェーバーの肩に乗ると、国家はその地域に置いて暴力を独占した者が作ったに過ぎない物である。ここで言う国家とはフィジカルである。何となく国家、国民形成論が蔓延している中ではこの問題は忘れ去られがちである。もちろん、国境と領土による国家の脱人格化等があるのでウェーバーの国家論は少し修正して応用する必要はあるだろうが、根本にある国家=暴力の独占と言う考えは間違っていない。

この考えは国際関係にも反映される。国際関係に置いて全ての国々を統治する組織は存在していない。その様な中では強制力のある法なる物も存在し得ない。あるとすれば個々の国同士の制裁等による強制力のみである。その様な中で、自国の安全や優位性を担保する最後で最も有効な武器は軍事である。それも絶対的な優位性がある事が重要である。無論その優位性を持ち得なかった国は持ちえる国の傘下入る事はなんらおかしな事ではない。弱い部族がより強い部族の傘下に入る事は弱い部族にも自分達の生存が危ぶまれる物ではないのであれば一定のメリットと成り得る。ここにおいてこの二つの部族は一つの国家らしき物へと変化する。冷戦時を例にとって見るとわかりやすい。二つの強大な暴力を持った部族が多くの周辺部族を自部族の参加に従えてにらみ合っていた。

しかし、傘下にある部族はけっして支配する部族の脅威となりえる暴力を持つ事は許されない。何故ならば、それは国家に置いて国民または何らかの集団が国家の存在を脅かす存在を容認しない事と同義である。

それらを踏まえて今回の山本教授の講演の「軍事転用可能な科学技術を自国の安全保障の為に独自に囲い込むか」と言う問い自体がどれ程の意味があるのかが私にはわからない。何故ならば囲い込んだ先が全く議論されていないし、前提にある日本とアメリカの関係に対する根本的な認識もずれている。

もしかしたら山本教授の立場上言えない事もあったのかも知れない。そのために山本教授ほどの教養の有る方の講演の内容がこの様な形に成ってしまったのかも、とも思う。



今回の交流会では質問時に過激な発言をしてしまった事を御詫び。



過激な質問をしたが本当のメインのポイントの質問は、何故日本はアメリカの言いなりにこうも成っているのか?本当は言う事を聞かないと行けないと思い込んでいるだけではないだろうか?と言う事だったのだが、そこに到達する前にタイムオーバーで終わってしまった事に後悔。



後の懇親会で講演時に一部失笑をかった私の過激な発言に対して擁護してくれた方が居たのは、嬉しかったが、それで良しと思ってもいけないと思った。
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by gsocio | 2009-03-21 08:45 | ボストンでの交流

教師って何だろう?

教師が生徒に夢を与える事は大事だろう。

しかしそれも生徒の年齢にもよるだろう。

生徒の将来が輝かしい物ではなく、大した職にも就けないし刺激の無い日常である事を告げる事はどうなのだろう。

夢を語る事が教師の使命か。

それとも、現実を告げ、それでも生きていかなければいけないと言うのか。

夢を語って生徒は信じるのか。

過酷とも取れる現実を受け入れさせるのか。

でも生徒は夢を信じるのだろうか、現実を受け入れるのだろうか。

夢も将来も現在の現実ではないし。

夢を語る教師は無責任か?

過酷な将来を告げる教師は職務放棄か?

理想論は理想の教師と生徒の上では成り立つものなのか?

そんな事もない気もするが。

色んな人生があっていいと思うし、それを受け入れる事が大事だと思うけれども。

理想が押し付けになった時、理想は絶望に変わる。
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by gsocio | 2009-03-15 13:56 | 社会系
f0192765_21531942.jpg日本から社会的包摂性が失われて久しいといわれている。社会的包摂性なんて言うと大きな話に聞こえる、なのでそれに対する対処も大きなレベルでと考えるが、社会が複雑化してしまうと上から何かすると言っても効果が期待通り行くかといえば難しいだろう。

小さな政府の理念は、政府を小さくする代わりに大きな社会で支えよう、と言う考えだ。実際は政府が小さくなると社会も小さくなってしまった。では政府を大きくすれば良いかと言うと、社会の複雑化が大きく横たわる。一つの方法論で世の中が上手く回らなくなってしまっている。個々の問題、地域、や人にあった方法で対処する必要があるだろう。もちろん個々の対処法に対する知識の共有は大切だが。そうなると、これからは地域組織や個人などでの小さな取り組みこそが大事になって来るだろう。自分達の事は自分達で解決する事が重要に成ってくるはずだ。

しかしここでも問題がある。自分達の「達」とは一体誰なんだと言う事だ。この問題が解決されなくては話が前に進まない。これも社会の複雑化と密接に関係する。しかし、考え方を変えると、「自分達」は「みんな」では無い。そこには何かしらの共有する物が存在するし比較的ゴールも近いので、社会の複雑化も少しは緩和されるだろう。自分達の「達」を集める方法は色々在るだろうし好きな方法でやれば良いだろう。エクストリームな形だと「高円寺、素人の乱」なんて物もある。

小さなところだとこんな話があった。

フリーターでプラプラしていた女の子が、パンク・メタル系のショップでバイトを始めその後社員になった。その女の子が働いていたショップにはそのカルチャー的な理由もあるのだろうか、お客の中にはリストカットをした事がある女の子等も居た。そんなリストカットをしてしまった女の子達と彼女はショップと言う空間で段々とつながって行った。彼女が働いていると、よく来るお客のリストカットを経験した事のある女の子が来た。彼女が「今日は何をお探しですか?」と聞くと、女の子は「いや、特に無いんですけど話がしたくなっちゃって」と少し悪そうに言った。彼女はその女の子と少し世間話をし、女の子は帰っていった。ショップと言う空間の中で彼女とその女の子は共有できる何かを持ち、女の子は少し話が出来た事で救われた部分もあっただろう。小さな事かもしれないが、彼女とショップと言う空間が「達」をなし包摂性となりえた。

自分も中学の頃学校に行かずに町でプラプラしていた。後ろ指も差されたし、心無い事を言われる事もあった。もともと上からの力に反発してしまう性格の自分が選らんな自分の人生の代償なのだから仕方ないと思いつつも、中学生の精神力で周りの大人の目を完全に無しする事は出来るわけも無く悩んだりもした。しかし、地域の商店でプラプラしている自分を見かね、「うちで働かないか」と声をかけてくれたおばさんがいた。働くと言っても店番をしているだけなので大した事では無いけれど、自分がどの社会に置いても風景と化してしまっている中、自分に承認と繋がりを与えてくれた。今でも、もしあの時に声をかけて貰えなかったら今の自分は無いかもなと考える。しかしそんな社会的包摂性はもう無いだろう。

一度失ってしまった物をもう一度取り戻す事は容易ではない。さらに社会的包摂性を失った社会がもう一度社会的包摂性を取り戻した例はまだ無い。状況は深刻だけれど前例が無い事からこそ色々出来るので、自分にとって一年位先の帰国は楽しみだ。

善い事と思って行った事が不の作用を生んでしまう事も多々あるのでそうならない様に今は勉強の毎日。

凡人に出来る小さな取り組み目指してみようかな。
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by gsocio | 2009-03-11 21:57 | 社会系

草食系男子って?

f0192765_20262946.jpg日本では流行言葉で草食系男子なるものがいるらしい。

もともとその言葉自体は知っていた。きっかけは森岡氏の本だ。しかしここまで流行っているとは知らなかった。

しかし森岡正博氏の草食系男子の恋愛学の内容を見るとどうも納得が行かない部分がある。何故ならば、簡単に男性を分けると、がっつき男性と奥手男性に分ける事ができる。この両者は肉食であるが、草食系男子は肉食ではない。ここで言う肉とは女性であ。そこで問題になるのは草食系男子の草とは何であるかと言う点だ。その答えは森岡氏はその事に付いては触れていない。もともと森岡氏の使う草食とはガツガツ=肉食で、その対比語として草食であるのだろう、つまり草食=ガツガツしていない。しかし一番の問題は森岡氏の草食系男子がただの自意識が強い奥手男子にしか見えない所だ。奥手男子は昔からいたし、彼らは肉食だ。けっして草食ではない。森岡氏の本も奥手男子の恋愛指南書といった感じだ。

では草食系男子とはいったい何なのだろう。肉食系男子の対比語として使われるのであるならば、肉=女性に興味が無い事になる。例えば、女性と同じベットに寝ていても何も起こらないし思わない。はっきり言ってそんな男は居ない。いや、居るには居るが殆ど居ない。またそう言った状況になる男子事態の数は少ない。それでも話を続けると、草食系男子とはモテる、がっつかない、セックスも出来るけどしない興味が無い男子だ。奥手、自意識が強い、好きな人もいる、モテるわけではない男子は隠れ肉食で、言ってしまえば弱い肉食獣(チキン)でしかない。

多くの男性からすれば草食系男子が成り立つのはモテる事が前提にある。非モテの男子からすれば羨ましい話でしかない。

しかし、ここでの一番の問題は男子には無い。肉食であろうが草食であろうが男子にとって本人がしたいようにしているだけでしかない。もちろん隠れ肉食男子の増加の原因を探る事は必要だが。

では一体何が問題なのか?草食系男子はもともと人事の「この頃の男子は使えない」と言う安定指向型の男子に対する労働問題から始まった事であるようだ。そこから生まれた言葉が草食系男子。

その草食系男子のガッツいていない所が今問題に成っているのは男女関係である。男女関係と言うよりも女性側の問題だろうか。わかり易く言ってしまえば肉食の男子と女子の数は一定数必要で、食べる者と食べられる(罠にかける)者が存在して成り立っていた。が、しかし草食系男子と隠れ肉食が増える事により食べる行動を起こす者の数が減ってしまい、主に食べられる側だった女性が食べる側に回らなければ行けなくなったフラストレーションがこの問題を注目させている原因だろう。も一つの原因は男性の消費が恋愛から他の物へと変わった経済的な理由だろうか。

草食系男子の問題の本質は意外と別の場所にあるようだ。
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by gsocio | 2009-02-24 18:40 | 社会系
f0192765_14492317.jpgハーバード・エクステンションの哲学のクラスを落とす事に決めた。理由はクラスが少し大きすぎる事による一方通行的なレクチャーになる気がした事。そして、意外と基礎過ぎた事。確かに大学は違えど基礎は一緒かもれない。逆に言えば、違っていたら困るか。

このクラスはアイデンティティーについてだ。アイデンティティーと何であるか。自分を自分たらしめる物はいったい何なのか。

簡単に言えば「承認からなる尊厳」。しかし、世間では「脱アイデンティティー」と言う考えが一部の知識人と言われる人達や学者等から出ている。確かに承認や尊厳が得られない人達が増えている。そんな人生は辛い、ならば承認から脱した「脱アイデンティティー」的考えが生まれるのも理解できる。しかし、アイデンティティーを放棄するのと、アイデンティティーを失うまたは持てない事はまったく違う。無我の境地に辿り着けたお坊さんは好いが、無我の境地に突き落とされた凡民は辛い。

さらに言えば「脱アイデンティティー」を論する人達が「脱アイデンティティー」によってアイデンティティーを得ている。ブラックユーモアとしか言いようがない。そんな事よりも、承認と尊厳が得られないのは社会構造が変わってしまったからであり、その中でどうしたら新たな形で承認と尊厳を得られるのかを論じた方が好いと思うのは私だけだろうか?

昔は何かをすれば承認と尊厳が得られた。結婚すれば一人前。いい大学、いい会社に入れば立派。しかし今はそんな事も無くなって来た。社会が多様化し流動的になり、会社に置いても入れ替え可能な存在でしかない自分に承認と尊厳は与えられない。そう言った認識の中、出来る奴はハイパーナ一番を狙い承認と尊厳を得ようとし、出来ない奴は承認も尊厳も得られない不安の中でさ迷う。

でも、今は形は変わってしまったけれど、承認も尊厳も得られる。承認と尊厳はポストや肩書きではなく、身近な人との長い関係によって得られる物る、決して何かやればOKと言うものではない。でも、ちょっとやそっとの事じゃあ揺るがない。

そう言った関係が持てない事が問題なのかもしれないが。決してそう言った関係で承認と尊厳を得ている人は少なくは無いと思うんだけれど。
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by gsocio | 2009-02-04 16:04 | 学問
f0192765_1142081.jpgスプリング・セメスターは研究だけでは少し暇すぎるので、ハーバードのエクステで哲学と仏教のクラスを取る事にした。ホームページで今大学で一緒に研究をしている教授が最初のホームページのスライドで出てきた。意外とまじめに教えているようだ。

哲学はおさらい的な目的。大学で哲学のクラスは幾つか取ったし、2~5人位のフォーカス・クラスも多く取ったのではあるが、やはり専攻が哲学ではないので知識と思考は蓮根的。

仏教はチベット仏教に付いてのクラス。仏教に軽く興味があったので、取ってみる事にした。環境が宗教形成にどの様な影響を与えたか、なんて事も解れば面白い。

どちらのクラスも後の社会学の勉強に応用できれば良いなと思ってはいるが、底の所ではただ単に興味や知りたいから取る事になったのだろう。
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by gsocio | 2009-01-22 11:34 | 学問
f0192765_11354100.jpg卒論を書き上げ、ディフェンスも終わりました。

たいした論文ではまったく無かったけれども、明日出来る事は今日やらない、タイムマネージメントが苦手な私には結構大変だった。

卒論はこんな感じでした。

「日本の雇用システムの変化によるコンピテンシー理念の変化と矛盾」

内容は本田由紀氏のハイパーメリトクラシー社会における若者の雇用問題に近いながら、アメリカの雇用システムとコンピテンシーを日本のものと比較し、解決策を本田氏の個々の専門性を高める事が重要とするのに対し、私は企業の採用システムに置けるコンピテンシーの鮮明化に解決策と考えた。

問題はそれだけでは無いのだけれど、あまり大きくし過ぎると何がなんだか解らなくなってくるので、今回はコンピテンシーに争点を当ててみた。

日曜日に他にやっている研究のレポートをクラスメートと簡単に書いておしまい。

この研究はまだ終わってないのでこっちに残って続ける予定ではあるけれど、一応卒業かな。
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by gsocio | 2009-01-09 00:51 | 学問
f0192765_1732513.jpg今月もボストン日本人研究者交流会に参加してきました。

今回も大変勉強になる交流会でした。
毎月こうの様な交流化を主催してくださる主催者の方や、発表者の方々には頭が下がります。

今回の注目は菅谷明子氏の知的協創を促すためのコミュニケーションデザイン

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菅谷明子
ジャーナリスト
東京大学大学院情報学環博士課程

ネットワーキングに格好なイベントに参加したものの、なかなか見知らぬ人と話すきっかけがつかめず、結局、知り合いと話すだけで終わってしまった、という経験はありませんか?同じ学部や部署に長い間在籍していたのに、偶然出会って話すまで、お互いに共通点が多いことを知らず、「もっと早く知り合っていれば」と思ったことは?

最近は、Facebookなどのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)に代表されるように、空間を飛び越えて人と人がつながる仕組み作りが急速に広がっていますが、その一方で、同じ物理的空間にいる人たちが、対面してコミュニケーションを交わし、交流を深めるための仕組作りは、意外と試みられていないという現状があります。

そこで、この講演では、人と人とをつなぎコミュニケーションを触発する、空間デザイン、アクティビティのデザイン、ディジタル・メディアなどの事例をご紹介し、知的協創を促すためのコミュニケーション・デザイン戦略について考えてみたいと思います。
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菅谷氏の考える空間デザインによって個々人の行動や思考を変え、知的協創を促すアイディアはなかなか興味深く聞かせていただいた。

空間デザインによる知的協創とは、個々の思考や行動は基本的に本人ないしは、本人に近い人間しか知る事はない(行動に置いては本人も知り得ていない事もある)。しかし、空間を新たにデザインする事によって閉じ込められていた個々のアイディアや、個々の行動領域を変える事により新たな交流を促し知的協創を促す事である。

菅谷氏はHGSDやMITのDスクールの校舎を例に挙げて説明された。これ等のスクールでは生徒の作業場の敷居をできるだけ無くす事や作業場を見渡せる空間等を作ることにより、個々の生徒のプロジェクトが他生徒からも分かるだけではなく、今まで交流が無かった生徒同士が他生徒のプロジェクトに興味を持つ事により交流が生まれ知的協創も生まれる用になっている。

また、この様な大規模な空間デザインだけではなく、例えばオフィスに散らばっているコーヒーメーカーを一つにまとめ、バラバラだった個々の行動の流れをまとめ上げ一つの共有空間に流れるインセンティブ(この場合はコーヒー)を与える事により交流を深める。また、この共有空間に進行している個々のプロジェクト等を簡単にまとめて説明した物等を置けば、よい交流し易くなるだろう。

空間デザインとは別に、オフィスの全員に端末センサーを持たせ、他者との交流行動比率を割り出し個々の交流の内容を把握し、交流の偏りを無くす取り組みなどもあるようだ。自分では自分の交流範囲は広いと思いがちだったりするが、このシステムを使うと自分の交流の内容が数値化されて出るので、意外と知らなかった自分の交流の偏りが解ったりする。交流の偏りが数値化されて解る事により、以降自身の交流を意識的により広い物にしようとする動機が生まれる。この方法はそれなりの結果が数値化して見れるのがメリットかもしれない。

アクティビティー等のデザインでは、今回の交流会の中でも休憩時間を使って行われた。胸に貼ったり首から下げ名前や所属の書いてあるだけのネームプレート等はよくある。しかし、菅谷氏の作ったネームプレートは名前や所属の他に子供の時に成りたかったものや、落ち込んだ時にする事など個人のアイデンティティーを表す事もネームプレートに書く事だ。この他にも、内容を文字ではなく絵等にビジュアルかする等、このネームプレートの内容を場のメンバー構成によって変える事により、より効果的なものになる。このネームプレートに個々のアイデンティティーを知り合う前から表す事により、事前にアイデンティティーの共有や相手イメージがある程度解る。それにより、最初の一歩目の交流がより容易になる。

今回の交流会で使われたネームプレートでは、上記の内容の他に分野ごとに大まかな色分けがあり、参加者は自分の色のテーブルで休憩をし交流を深める試みがなされた。これは参加者のアンケート結果によるもので、参加者の多くは分野の違う方と交流も積極的に行いたいと言う思いがある。しかしあまりにも分野が違いすぎるよりは多少は研究などが解ったほうが交流もスムーズに行くであろうという配慮から、今回のグループ分けがなされた。この他にも、グループ内でのアクティビティーや参加者の配置移動を促すインセンティブ等を加えればより参加者の交流が深まり、知的協創が促される事も可能だろう。

この様なコミュニケーションデザインに少しの工夫で、知的協創を促せると言うアイディアは大変新鮮な物であった。今回の菅谷氏の発表を応用すれば色々な場所や状況に応じて、知的協創を促す事が可能な気がする。

しかしながら、知的協創も問題がある。それは企業などにおいて知的協創がどれほど業績に影響してしてくるかだ。交流会内でもこの事に対しての質問が出た。菅谷氏の答えは企業によって何が業績かが違ってくるので一眼には言えないと言う答えだった(そう記憶している)。確かに、知的協創の成果は数値化するのは難しい。企業の業績が上がったのが知的協創のおかげなのか、他の影響なのかは簡単には解らない。しかし、コミュニケーションデザインで知的協創を促すと言う事は、知的協創が社会に取って有用な事だと言う前提があるからこそである。であるならば、知的協創を促がすだけではなく、企業に置ける知的協創の業績との関連性や有用性等や、社会に置いて知的協創もたらす恩恵等も同時に示す必要があるはずだ。
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by gsocio | 2008-10-19 13:07 | ボストンでの交流

学生生活開始

f0192765_739233.jpg今週からやっとクラスが始まります。他のクラスはもう既に始まっているのですが、今学期は1クラス(卒論)しかとっていないので、ゆるい学校にさらにゆるいクラスが出来てます。さらに、学期中にオフィシャルなクラスは8回しかないので、さらにゆるいです。他にも一応独自の研究が有るのでちょくちょく学校に行きますが。

しかし、卒論のテーマを何にするか考え中です。一応、経営学専攻なのでそこまで大変ではないようですが。絞ったテーマは雇用システムの比較と労働組合再生論。どちらも社会学的にも書けるはずなのですが、一応自分は経営学専攻なのでそちらに沿って書く予定です。


そう言えば以前に友達に教えてもらった「15の夜」の替え歌で「D5の夜」なる替え歌があるそうです。

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D5の夜

書きかけの修論とバイトばかりしてる俺
パソコンの前で上の空 届かない夢を見てる
居場所のない研究室のドクター殴りたい
言葉の裏 皮肉を込められ言われれば逃げ場もない
図書館にこもり 背を曲げながら
言葉の一つも解りあえない文献たちをにらむ
そしてドクターたちは今夜修論の下馬評を立てる
とにかくもう 学校や家には帰りたくない
自分の研究が何なのかさえ 解らず震えている
M2の夜

盗んだテーマで走り出す 行く先も解らぬまま
暗い夜の帳りの中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだ大学院で
自由を失った気がした M2の夜

冷たい風 冷えた体 人恋しくて
夢見てるマスターの発表を 「ダメだ」と呟き叩き潰す
闇の中 ぽつんと光る 学会発表
一晩あれば書ける業績 ひとの論文まる写し
公募の結末も解らないけど
教授と俺は就職だけ ずっと夢に見てる
教授たちは博論を書けよ書けよと言うが 俺は嫌なのさ
就職活動が俺達の全てならば
なんてちっぽけで なんて意味のない なんて無力な
D5の夜

盗んだテーマで走り出す 行く先も解らぬまま
暗い夜の帳りの中へ
覚えたての学説ふかし 論文をやっつけながら
仕事を求め続けた D5の夜

盗んだテーマで走り出す 行く先も解らぬまま
暗い夜の帳りの中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだ大学院で
自由になれなかった D5の夜

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こうはなるまい。
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by gsocio | 2008-10-02 16:52 | ボストンの学生生活