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このブロウは社会学かぶれの自分が、日々過ごす中で感じた事、読んだ物、多々ある中、適当に思った事をちょっと社会学的に見てみようか、程度のブログです。


by gsocio

ボストン日本人研究者交流会にて

ボストン日本人研究者交流会にて_f0192765_759937.jpg先週末にボストン日本人研究者交流会に参加してきました。

今回の発表で興味深かったのは第二部の、

「リーダーの条件と育成 ~ボストンでの経験から考える~」

柳沢 幸雄
東京大学大学院新領域創成科学研究科 教授
元ハーバード大学公衆衛生大学院環境健康学科 併任教授


日本とアメリカの最も歴史のある大学であるハーバード大学と東京大学での研究、教育経験をもとに、OfficerとStaffをキーワードにして、日本とアメリカの大学システムを比較する。研究の企画と実施、教育企画と実施のプロセスから、意思決定におけるOfficerとStaffの役割、処遇を紹介する。

大学での経験をもとに、OfficerとStaffの役割の違いを明示し、意識するアメリカ社会と、名ばかり管理職が横行することからも明らかなように、管理職と非管理職の間に明確な意識の差がない日本社会との間に存在する意思決定プロセスの違いを考察する。意思決定プロセスにおける実質的決定者はだれか、その権限と責任、責任への対価として給与を通じて、リーダーの条件とリーダーを育成法について考える。

でした。


柳沢教授の提示する大学研究に置けるリーダーシップと責任の明確性の議論は大変興味深い物であった。しかしながら研究をするにあたり研究への出資を大学外からに頼る事は理系ならまだしも文系の研究では中々難しい物がある気がする。勿論文系の研究の中でも社会的に認知され、出資されるような研究は沢山あると思うが、社会的に認知されず研究資金が集まらない研究もあるに違いない。その様な研究に対してどの様な対処が必要なのだろう。勿論、研究をする者が自己の研究資金を集めるにあたって出資者を募り出資をして貰う様に働きかける重要性も理解できる。研究者の努力によってまかなえる部分もあるであろう。しかしながら、その様なシステムでは研究者が知識人かつ社会的リーダーとして存在する事は難しくなる様に思えて成らない。

エドワード・W・サイードは自己の著書「Representations of the Intellectual」の中で知識人の定義として、社会的力=政府等からの肩書きや名誉有る賞等の上からの、取り込みが行われた時に人は知識人に成るとされている。また知識人は虐げられ、忘れ去られ、声を上げられない者達の声を代弁する役割があるともしている(しかし決して忠誠を誓っては成らないとも)。その観点から考えるならば、研究者が自己の研究に対して出資を募る際に代弁者としての研究は大変難しくなるだろう。また、政府からの肩書きや名誉有る賞等を持っていると当然外からの出資は見込みやすくなる。そうすると研究者は政府からの与えられる肩書き欲しさに政府よりの見解をせざる得なくなる。また、名誉有る賞も同様で、賞を取るための研究や発表に方向性がどうしても行ってします。

これは仕方のない事で、研究費がなければ研究者は研究が出来ないのだから。その様な環境で知識人としてリーダーは大変厳しい立場に立たされていると思う。この事に付いて柳沢教授に質問してみたが、納得が行く答えは得られなかった。勿論自分の質問も解りづらかった事も有るのだけれど、この問題に簡単な答えは元々ないからだ。

研究者が自己の研究に対して賛同者や出資者を集める好意は大事だ、しかし賛同者や出資者ばかり見ていては問題だ。同様に、賛同者や出資者が研究の説く特性上、中々現れない研究でも大事な研究もあるだろう、しかしだからと言って外に目を向けずに研究に没頭すれば良いかといえばそうではないはずだ。

柳沢教授にもう少し御話を伺いたかったけれど、後に予定が詰まっていたので、発表後直ぐに会場を後にしなければ行けなかった事に少し後悔。
by gsocio | 2008-10-01 16:38 | ボストンでの交流